2020.01.29 11:26第2回研究会2020年1月27日(月)、川場村の吉祥寺において、第2回研究会ということで関係者4名が集まりました。本堂の別室にて、和菓子に抹茶をいただきながら楽しく語り合い、今後の更なる研究会の活動推進を確認し、解散しました。参加された皆様、たいへんお世話になりました。また次回を楽しみにしています。
2019.07.11 12:16後閑橋(竹ノ下橋)合戦2019.7.15更新 櫛渕達夫『上野国利根郡村誌』月夜野町より抜粋古戦場 町ノ北方字東原ノ辺ヨリ、町ノ東利根川ノ岸ヲ云ウ、(中略)(天正)七年利根川以西漸ク北条氏二背キ真田氏二属ス、氏邦之ヲ聞キ先ツ名胡桃ヲ征シ、一戦大二敗レ帰リ、八年師再ヒ来リ当城ヲ攻ム、可遊斎精兵ヲ伏セ寡贏ヲ竹ノ下二出ス、南師之ヲ侮リ競ヒ進ミ小袖橋ヲ過キ、菩提木二至リ疾ク攻ム、拒戦少頃ニシテ之ヲ麾ク、伏兵四起ス、南師大驚キ退ク、追撃利根ノ川原二至リ敵止ル能ハズ、走リ橋ヲ争フ者相擠リ渉ル者、溺レ死スル者多シ、(以下略)[訳]古戦場の位置は、月夜野町の北方、字東原の辺りより、町の東方利根川の岸をいう。天正7年(1579)、利根川より西は暫く、北条氏に背いた真田氏に属した。北条氏邦はこれ...
2019.04.22 10:02秀吉による沼田領問題の裁定 1582(天正10)年、甲斐・信濃・上野を舞台に繰り広げられた戦いを「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)といいます。その概要を簡単に言えば徳川家康と北条氏直の戦いで、天正10年6月の本能寺の変後、織田家から離れた北条家が武田の旧領に侵攻したことにより、織田体制下の大名である徳川家康がその討伐に当たったことによる紛争で、周辺の上杉景勝や武田遺臣の真田昌幸、さらには地元の国人衆などを巻き込んだ複雑化したものとなりました。最終的には講和によって終結し、上杉家は信濃北部4郡を支配、甲斐・信濃は徳川家に、上野は北条家の切取り次第で決着をみました。 しかし上野は領有争いの激しいところで、関東管領山内上杉家が支配していたときに、1552(天文21)年、北条氏...
2019.03.10 11:46明治初年時点の知行形態利根沼田地域における幕末の土地支配状況です。 意外にも沼田藩の支配地域は、町村数において地域全体の34パーセントしかないです。前橋藩が2パーセント、幕府直轄領と旗本領で残りの64パーセントです。旧月夜野町の区域では、赤谷川右岸と赤谷川・利根川の合流点から利根川下流側右岸が全域旗本領です。対岸は沼田藩領。さて、ここでお気づきの方もいらっしゃると思いますが、まるで1589(天正17)年、北条と真田の領地争い仲裁の秀吉裁定のようです。その裁定は沼田城側を北条支配とし、名胡桃城側を真田支配とするものでした。ところが北条側が裁定を破り、名胡桃城を奪取してしまいました。秀吉の怒り買ったことによる小田原攻めの果て、北条氏は滅亡、秀吉の天下統一へと進んだ訳です。その当...