2021.09.16 14:36下津村へ分家した櫛渕家2021.9.16更新 櫛渕達夫後閑村の櫛渕本家から分家した下津村の櫛渕家について、部分的に推測の域を出ない箇所もありますが、分家の経緯について筆者なりの考えを記しておきます。【まず後閑村本家の由緒について触れておきます】『真田信之』の沼田領主時代(西暦1590年~1616年)に、鹿嶋の地で剣術修行を積んだ『櫛渕主税宣常』(阿波国櫛渕村では『櫛渕五郎大夫成松』と名乗った)が、先祖が真田家と同じ信濃国であるという理由から、真田を頼って沼田へ転住し真田家の客分となった。以後は、真田家家臣となって2代『兵衛尉宣好』~3代『左近根常(常元)』と続き、『常元』の代で利根郡後閑村を領知した。天和元年(1681年)11月、4代『常久』のとき、沼田真田家が幕府より命じ...
2020.03.12 15:09記録に残る戦国期櫛渕家の重臣2020.3.13更新 櫛渕達夫【大栗縫殿助兼正】Ooguri Nuidennosuke Kanemasa 1503年(文亀3)秋元和泉守盛貞が攻め落とした、細川家に反抗した大野城主の家老。大野城主が生国から召連れてきた家老で、大野城落城後は大栗縫殿助兼正を大野城の城代に任じ、盛貞二男の次良五郎盛利が成長したところで、大野城に派遣し大栗兼正と交代した。(1835年.秋元成立書.p0082)(櫛渕町史.p129) 秋元盛貞の家老、知行500貫。(櫛渕町史p128)【庄野兵馬元吉】Shouno Hyouma Motokichi 秋元盛貞の家老、知行400貫。(櫛渕町史.p128)【小野利右衛門一延】Ono Riemon Kazunobu 秋元盛貞の家老、知...
2020.02.15 12:00三峰山河内神社の大木剣 2020.2.15更新 櫛渕達夫 2020年2月15日、2月にしては暖かい散歩日和だったので、三峰山の南端山頂付近にある「三峰山河内神社」に行ってみました。正午前、直下の駐車場に到着すると先着2台が駐車中。どうやらハイキングのようです。妻と愛犬ビーグル2匹とで登ってきました。 河内神社の拝殿軒下に、大きな木刀が掛けてあります。剣豪櫛淵虚中軒由来のもので、その概要は次のとおりです。(鹿嶋神道一心流ホームページより引用) 「櫛淵彌兵衛宣根(虚中軒)は、1785年(天明5)、およそ20年の武者修行を終え、早春より三峰山河内神社に百日参籠し、新たな流儀『神道一心流兵法』を編成した。 1795年(寛政7)12月、一橋家剣術薙刀術師範役となったため、父宣久は歓喜...
2020.01.29 11:26第2回研究会2020年1月27日(月)、川場村の吉祥寺において、第2回研究会ということで関係者4名が集まりました。本堂の別室にて、和菓子に抹茶をいただきながら楽しく語り合い、今後の更なる研究会の活動推進を確認し、解散しました。参加された皆様、たいへんお世話になりました。また次回を楽しみにしています。
2019.12.27 10:04家紋入りお膳2019.12.27更新 櫛渕達夫 下津櫛渕家の住居を建て直した際に、永らく仕舞われていたお膳などが多数出てきていて、数年前に、保管に困っているので処分するが、欲しい人は持って行ってとの連絡があり、記念に少しばかり頂いてきたものです。 下津櫛渕家の家紋「真向き月」が入っています。
2019.07.15 06:10幕末の剣豪櫛淵虚中軒の碑2020.1.10更新 櫛渕達夫 まず、訂正と言うか、タイトルにある「幕末の剣豪・・・」についてですが、疑義が生じましたので記しておきたいと思います。櫛淵虚中軒(櫛淵彌兵衛宣根)の生没年は、西暦1748年~1819年で71歳の生涯でした。また一般的に幕末とは、ペリーの黒船来航から戊辰戦争終結までの西暦1853年から1869年の16年間を指します。虚中軒没後34年経過して幕末になったのであり、タイトルにあるように幕末の剣豪ではありません。虚中軒は、江戸時代の中期~後期中頃までの人物でした。 この石碑は、上野恩賜公園内の「不忍池弁天堂」の裏側にあたる場所にある。ボート乗り場に行く手前である。
2019.07.11 12:16後閑橋(竹ノ下橋)合戦2019.7.15更新 櫛渕達夫『上野国利根郡村誌』月夜野町より抜粋古戦場 町ノ北方字東原ノ辺ヨリ、町ノ東利根川ノ岸ヲ云ウ、(中略)(天正)七年利根川以西漸ク北条氏二背キ真田氏二属ス、氏邦之ヲ聞キ先ツ名胡桃ヲ征シ、一戦大二敗レ帰リ、八年師再ヒ来リ当城ヲ攻ム、可遊斎精兵ヲ伏セ寡贏ヲ竹ノ下二出ス、南師之ヲ侮リ競ヒ進ミ小袖橋ヲ過キ、菩提木二至リ疾ク攻ム、拒戦少頃ニシテ之ヲ麾ク、伏兵四起ス、南師大驚キ退ク、追撃利根ノ川原二至リ敵止ル能ハズ、走リ橋ヲ争フ者相擠リ渉ル者、溺レ死スル者多シ、(以下略)[訳]古戦場の位置は、月夜野町の北方、字東原の辺りより、町の東方利根川の岸をいう。天正7年(1579)、利根川より西は暫く、北条氏に背いた真田氏に属した。北条氏邦はこれ...
2019.06.29 07:02文亀3年(1503)当時の領地2019.6.29更新 櫛渕達夫 文亀3年(1503)~天正10年(1582)当時、秋元和泉守諏訪盛貞、櫛渕紀伊守盛之、櫛渕左近佐成公の三代にわたり支配していた領地の範囲は、おおよそ赤塗りの部分で、櫛渕村・三倉村・立江村・古毛村・荒田野村・上大野村・下大野村の7村で3,000貫(6,000石相当)であった。 ところが、天正10年(1582)8月28日、四国平定を目指す長宗我部元親軍が阿波国へ侵攻し、守備側の勝瑞城を本陣とする十河存保率いる三好諸将との間で、およそ20日間にわたる戦いが繰り広げられた『中富川の戦い』。長宗我部軍兵力23,000人、十河軍兵力5,000人。この合戦で三好方の著名な城主のほとんどが戦死した。この中には櫛渕城主櫛渕左近佐成公(...
2019.06.18 11:28祖先が築いた櫛渕城・奥条城2020.4.29更新 櫛渕達夫 櫛渕駒藏・秋元勘右衛門が作成した『成立書』に記述している「櫛渕村に居城築き…」の城が、書籍『三好一族と阿波の城館』(戎光祥出版)の中に詳細に掲載されているので、引用させていただいた。 書籍には、櫛渕城跡鳥瞰図・櫛渕城跡縄張り図・奥条城跡鳥瞰図・写真等が掲載されているが、写真・図版の複製・転載の禁止となっているので、残念ながらここでは掲載できない。櫛渕城 所在地/小松島市櫛渕町字諏訪 立地/独立丘陵 築城時期/鎌倉~戦国時代 城主等/秋元紀伊守 遺構/曲輪・竪堀・土塁奥条城 所在地/小松島市櫛渕町字奥条 立地/山の中腹尾根 築城時期/戦国時代 城主等/秋元紀伊守 遺構/曲輪・竪堀・土塁 櫛渕城の(主な...
2019.06.16 10:10秋元和泉守盛貞の出自について2019.6.25更新 櫛渕達夫史料1.「成立書家系圖共 櫛渕駒藏」の記述 先祖の秋元和泉守盛貞は諏訪大祝盛澄の後胤で、信州上諏訪の城主繁野貞國の孫で、信州秋元の里を領地としていたところ、文亀2年(1502)に阿波国へ来たときに三好之長の支援により細川家家臣となり、那賀郡櫛渕村・三倉村を領地とした。 文亀3年(1503)、那賀郡大野城主某の裏切りのため、盛貞は8月13日に討伐に出て9月5日に攻め落とした。その恩賞で、那賀郡のうち立江・古毛・荒田野・上大野・下大野の5村を領地に加え、旧領と併せて三千貫(6千石)となり、櫛渕村に居城を築き苗字を櫛渕と改め、諏訪明神のほか諸社を建立した。永禄3年(1560)8月病死した。史料2.「成立書並系圖共 秋元勘右衛門...
2019.06.16 10:04成立書について2019.6.16更新 櫛渕達夫 徳島大学附属図書館収蔵 近世大名(蜂須賀家)家臣団家譜資料「成立書」という史料で、蜂須賀家が家臣に対して、それぞれの家の系譜を書き上げさせたもので、その多くは天保5年(1834)に作成され、その後、文久元年(1861)に書き継いで提出されたものです。なかには、寛政年間に提出されたものも含まれており、提出時期とその目的については今後検討していく必要があるということです。また、明治期に入っても何度か書き継いで提出されています。明治期に提出されたものについても、その作成目的に関しては今後の検討が必要になるようです。 成立書を提出した家臣は、家老などの重臣から無足人と呼ばれる下級の家臣までの全てです。その中で、重臣の家譜に当た...