幕末の剣豪櫛淵虚中軒の碑

2020.1.10更新 櫛渕達夫

 まず、訂正と言うか、タイトルにある「幕末の剣豪・・・」についてですが、疑義が生じましたので記しておきたいと思います。櫛淵虚中軒(櫛淵彌兵衛宣根)の生没年は、西暦1748年~1819年で71歳の生涯でした。また一般的に幕末とは、ペリーの黒船来航から戊辰戦争終結までの西暦1853年から1869年の16年間を指します。虚中軒没後34年経過して幕末になったのであり、タイトルにあるように幕末の剣豪ではありません。虚中軒は、江戸時代の中期~後期中頃までの人物でした。


 この石碑は、上野恩賜公園内の「不忍池弁天堂」の裏側にあたる場所にある。ボート乗り場に行く手前である。

 石柱と石碑が並んで立っているが、左側の石柱には、正面に『幕末之剣豪櫛淵虚中軒之碑』、向かって左側面に「昭和五十三年七月吉日」、右側面に「上州利根郡月夜野町」と刻まれている。

 右側の石碑には、上部に大きな文字の二行書きで「虚中軒先生碑」と刻まれている。その下にたくさんの漢字が刻まれているが、刻みが浅いのか風化が進んでいるのか、かなり読み取りにくい。しかし裏面は、一部表面が剥がれ落ちている場所を除けば、しっかりと刻まれているため、容易に理解することができる。裏面の内容は次のとおりである。


  建碑幹事門人

    山内宗馬安豊

    山崎孫四郎紹平

    櫛淵幸作盛従

    今井吉兵衛昭甫

紀元二千六百年

昭和十五年十一月十・・ ←(この箇所が剥がれ落ちているため不明)

  宣根五代裔 鍹一


と刻まれている。

 鍹一は、明治23年(1890)~昭和39年(1964)までの人物。昭和15年(1940)11月とあるので、鍹一が50歳のときに刻ませたと思われる。虚中軒(宣根)~宣猶~盛宣~宣秀~鍹一となり、虚中軒から数えて五代目となる。なお、昭和15年(1940)11月当時の鍹一は、日本帝国陸軍少将で、農林省馬政局次長を務めていた。翌16年3月には軍馬補充部本部長に就任し、8月に陸軍中将に進級し、10月に留守第3師団長に新補された。


 石碑の建立は、文政2年(1819)虚中軒の嫡子宣猶とされる。確かに石碑の表面には薄らと文政二年己卯秋九月などと刻まれているように見える。


(注)『虚中軒』を『虚冲軒』と刻まれているが、これは碑文選者の清水赤城が華字として選んだもので、櫛淵親族は誤字であると認識しているらしい。


 石碑の表側。左から三番目の人物が櫛淵鍹一。昭和15年当時の写真だろうか。

櫛渕史研究会

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