後閑橋(竹ノ下橋)合戦

2019.7.15更新 櫛渕達夫

『上野国利根郡村誌』月夜野町より抜粋

古戦場 町ノ北方字東原ノ辺ヨリ、町ノ東利根川ノ岸ヲ云ウ、(中略)
(天正)七年利根川以西漸ク北条氏二背キ真田氏二属ス、氏邦之ヲ聞キ先ツ名胡桃ヲ征シ、一戦大二敗レ帰リ、八年師再ヒ来リ当城ヲ攻ム、可遊斎精兵ヲ伏セ寡贏ヲ竹ノ下二出ス、南師之ヲ侮リ競ヒ進ミ小袖橋ヲ過キ、菩提木二至リ疾ク攻ム、拒戦少頃ニシテ之ヲ麾ク、伏兵四起ス、南師大驚キ退ク、追撃利根ノ川原二至リ敵止ル能ハズ、走リ橋ヲ争フ者相擠リ渉ル者、溺レ死スル者多シ、(以下略)


[訳]

古戦場の位置は、月夜野町の北方、字東原の辺りより、町の東方利根川の岸をいう。

天正7年(1579)、利根川より西は暫く、北条氏に背いた真田氏に属した。北条氏邦はこれを聞き、まず名胡桃城を征服し、一戦して大敗したため逃げ帰り、翌8年、北条勢は再び名胡桃城を攻めた。真田方の可遊斎は精鋭の兵を伏せて、その内の少数の兵を「竹ノ下」に配置した。北条勢はこれを少数と侮り、先を競い進軍し、小袖橋を過ぎ菩提木に至り、あわただしく攻めた。真田勢は暫く防戦したが兵を差し招き、伏兵が四方から現れたところ、北条勢は大いに驚き(後閑の明徳寺城へ向けて)退却を開始した。追撃して利根川の川原まで至り、敵は止まることなく敗走し、後閑橋を争って我先にと押しのけて渡る者のため、落ちて溺死する者が多かったという。

「竹ノ下」=小袖橋の北岸下の辺り(月夜野郵便局下)と、現在の茂左衛門地蔵尊北側の利根川西岸辺り

寡贏(かえい) 寡=少ない、贏=もうける、あまる、のびる、つつむ、になう、かつ

師=軍

拒戦少頃(きょせんしょうけい) 拒戦=防戦、少頃=しばらく、少しの間

相擠り(あいおせり)=互いに押しのける


『上野国利根郡村誌』後閑邨より抜粋

竹ノ下橋 三国裏街道二属シ西方月夜野町二通ス、利根川二架ス、長三十六間巾弐間、木製刎橋ナリ、旧記二、文永三年沼田景盛利根川二始テ舟渡ヲ設ク、其後天正年中北条安房守大軍ニテ、小川城ヲ攻テ敗走シ、橋狭ク押シ合テ川二落ト伝


[訳]

竹ノ下橋(後閑橋) 三国街道の裏街道として、沼田から政所・真庭・後閑を通り、西方の月夜野町に通じ羽場・布施へと続く街道。利根川に架かるこの「竹ノ下橋」は、長さ36間(65m)、幅2間(3.6m)で、木製はね橋である。旧記に、文永3年(1266)、沼田景盛が利根川に初めて船渡しを設置した。その後、天正年間に北条安房守が大軍で小川城を攻めて敗走し、橋幅が狭くて押し合いになり、川に落ちたという。


「里見吉政戦功覚書」の内容

天正8年カ(1580)4月8日、『後閑橋』の東詰に真田勢が攻め入り、北条勢と戦う。


[解説]

利根川東岸の後閑側には明徳寺城があり、この時点では北条勢の支配となっていて、西岸の月夜野側から北条勢を追撃した真田勢が『後閑橋(竹ノ下橋)』を渡って攻め入り、北条勢と戦ったということであろう。ちなみに、この西岸の付近を「竹ノ下」というが、『後閑橋』の西岸の小高い丘に現在の茂左衛門地蔵尊があるが、当時、そこには橋を守備する兵が詰める館の存在があったとされる。そして「竹ノ下」という地名については、一般的に高い場所に築かれることが多い城館などの下の一帯に付けられることが多いという。「館ノ下」「たてのした」「たけのした」「竹ノ下」になったのだろうか。また、小袖橋の北岸、月夜野郵便局の下の赤谷川沿いも「竹ノ下」という。小袖橋の南岸の小高い場所に現在の茂左衛門地蔵尊奥ノ院がある。その場所も『後閑橋』と同様に当時は橋の防衛拠点だったのかもしれない。そして『後閑橋』は小川城・名胡桃城・明徳寺城を三角形で結んだ中心に存在した。この付近で軍勢が利根川を容易に渡河できるのは、この『後閑橋』以外には無く、上杉謙信が三国峠を越えて関東へ出兵する際は、必ずこの『後閑橋』を渡り沼田城へ入城したという。


現在の月夜野橋、この付近に後閑橋(竹ノ下橋)があったとされる。

なぜこの場所か、それは利根川が赤谷川と合流して水量が増える手前であり、この場所がこの辺りでは最も川幅が狭く両岸が切り立っているから、橋脚の不要な刎橋を構築するには絶好の場所となるからであろう。

橋の西岸、茂左衛門地蔵尊のある高台。ここに守備する館が存在した可能性あり。小袖橋南岸の奥ノ院も同様と考えたい。

大正時代の月夜野橋(後閑側から月夜野側を望む。小高い丘は茂左衛門地蔵尊)


刎橋(はねばし)について

刎橋とは、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。この手法により、橋脚を立てずに架橋することが可能となる。

木造で現存する刎橋はない。山梨県大月市の猿橋は、鋼製の橋桁に木材を貼り付けて江戸時代の構造を復元している。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護している。かつては富山県黒部市の愛本橋や長野県の雑炊橋も刎橋であった。石造の刎橋は九州と中国地方など西日本に多数残っている。そのほか、日光の神橋では、刎橋と桁橋を組み合わせた構造を取っている。(ウィキペディア)


木製刎橋の例、この橋は約64mなので、後閑橋(竹ノ下橋)と同規模となる。

同じ橋です。このような感じだと思うと大変参考になります。

櫛渕史研究会

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