文亀3年(1503)当時の領地

2019.6.29更新 櫛渕達夫 

 文亀3年(1503)~天正10年(1582)当時、秋元和泉守諏訪盛貞、櫛渕紀伊守盛之、櫛渕左近佐成公の三代にわたり支配していた領地の範囲は、おおよそ赤塗りの部分で、櫛渕村・三倉村・立江村・古毛村・荒田野村・上大野村・下大野村の7村で3,000貫(6,000石相当)であった。

 ところが、天正10年(1582)8月28日、四国平定を目指す長宗我部元親軍が阿波国へ侵攻し、守備側の勝瑞城を本陣とする十河存保率いる三好諸将との間で、およそ20日間にわたる戦いが繰り広げられた『中富川の戦い』。長宗我部軍兵力23,000人、十河軍兵力5,000人。この合戦で三好方の著名な城主のほとんどが戦死した。この中には櫛渕城主櫛渕左近佐成公(櫛渕国武)も含まれる。負け戦の後領地も城も失ってしまった櫛渕の子孫は、その後に阿波国へ入部した蜂須賀家の家臣となった。


おおよその領地の範囲

櫛渕史研究会

本サイトは、櫛渕の苗字の成立ちから現在までについて調査研究したもののうち、公開可能と判断できる内容を掲載し、櫛渕について興味をお持ちの方にご覧いただくことを目的としています。

0コメント

  • 1000 / 1000