2020.4.29更新 櫛渕達夫
櫛渕駒藏・秋元勘右衛門が作成した『成立書』に記述している「櫛渕村に居城築き…」の城が、書籍『三好一族と阿波の城館』(戎光祥出版)の中に詳細に掲載されているので、引用させていただいた。
書籍には、櫛渕城跡鳥瞰図・櫛渕城跡縄張り図・奥条城跡鳥瞰図・写真等が掲載されているが、写真・図版の複製・転載の禁止となっているので、残念ながらここでは掲載できない。
櫛渕城
所在地/小松島市櫛渕町字諏訪
立地/独立丘陵
築城時期/鎌倉~戦国時代
城主等/秋元紀伊守
遺構/曲輪・竪堀・土塁
奥条城
所在地/小松島市櫛渕町字奥条
立地/山の中腹尾根
築城時期/戦国時代
城主等/秋元紀伊守
遺構/曲輪・竪堀・土塁
櫛渕城の(主な)城主は秋元紀伊守である。天正10年(1582)に落城し、一族の櫛渕左近は中富川で討死したとされる[*1]。また、櫛渕城の西方500メートルには櫛渕城と関連する奥条城がある[*2]。
注【(主な)と付け加えた。鎌倉時代から存在するとなると、何代にもわたっているはずである】
櫛渕城は、櫛渕五山(五ツ山・五社丸)などと呼ばれる独立丘陵の東から二つ目の標高28メートルの杉尾山(城山)の山頂部にある。奥条城はさらに西方へ500メートルにある、通称「高ザレ山」中腹の標高61メートルの緩斜面に位置する。
秋元氏は、承久の乱後に石清水八幡宮領櫛渕荘の地頭職に補任され、櫛渕の地で勢力を拡大し、戦国期まで存続したという。注【この地頭の氏は秋本が正しいと思われる】
櫛渕城の現状は、山上のほぼ全面に施設が建設され、遺構の大半は失われている。『櫛渕町史』[*3]には、平成10年の施設建設以前に実施した本田昇氏の調査にもとづく鳥瞰図と報告文が所収され、櫛渕城の往時の姿を伝える貴重な資料となっている。
最高所の主郭は、東西43×南北26メートルの三角形状である。西端部には櫓台を設け、東側に土塁を配し、中央部に虎口を設けている。櫓台直下には小規模な腰曲輪を配し、斜面の緩やかな南側には、東西80メートルに及ぶ帯曲輪を巡らせる。
帯曲輪の東端は、北側に細く回り込んで主郭東の虎口に達する。西端は竪土塁と竪堀で遮断する。また、本田氏は城山の東の櫛渕八幡神社が鎮座する八幡山との間の谷を、自然の谷を掘り窪めて堀にし、同様に西側の谷も加工して堀にしたとみている。
なお、杉尾山周辺では「城ノ下」や直営田を意味する佃(つくだ)の付く「北佃」などの地名が残る。小松島市教育委員会が北佃で実施した発掘調査では、少数ながら鎌倉時代・室町時代の遺物が出土した。居館は、南麓の民家のある平坦面に想定されている。
奥条城は、秋元紀伊守が創建した法泉寺[*4]の裏山に位置し、秋元氏の墓とされる宝筐印塔がある。隅飾の直立する古相を示すこの宝筐印塔を取り囲むように、緩斜面上に横堀状の窪地が廻る。本田昇氏は、山の中腹という築城位置や曲輪の未成形な点などから疑問を呈すが、奥条(城)という地称や地元の伝承を重視し城跡との見解をとっている。
(執筆者 小松島市教育委員会 岡本和彦氏)
*1 『阿波志』
*2 『立江町史』(那賀郡立江町、1935年)
*3 『櫛渕町史』(櫛渕公民館、1990年)
*4 『阿波志』
参考文献/戎光祥出版 三好一族と阿波の城館
〈2020年4月29日追記〉
あくまでも筆者の推測であるが、「奥条城」の呼称は現代の研究者によって付されたもので、存在した当時の呼び名は「奥城」であった可能性が高い。奥条城という呼称は、この地が奥条(城)と呼ばれていたため近年に付けられた。本城である「櫛渕城」の奥に築城されたため単純に奥城と呼ばれていたものと思われる。そしてその用途は、本城が攻め落とされたときの退却用の城、また本城が攻城されているときに、敵の後方から挟み撃ち用に味方が詰めた城として用意されたものと思われる。いずれにせよ攻め手の兵力を分散することが可能となる。
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