秋元和泉守盛貞の出自について

2019.6.25更新 櫛渕達夫


史料1.「成立書家系圖共 櫛渕駒藏」の記述

 先祖の秋元和泉守盛貞は諏訪大祝盛澄の後胤で、信州上諏訪の城主繁野貞國の孫で、信州秋元の里を領地としていたところ、文亀2年(1502)に阿波国へ来たときに三好之長の支援により細川家家臣となり、那賀郡櫛渕村・三倉村を領地とした。

 文亀3年(1503)、那賀郡大野城主某の裏切りのため、盛貞は8月13日に討伐に出て9月5日に攻め落とした。その恩賞で、那賀郡のうち立江・古毛・荒田野・上大野・下大野の5村を領地に加え、旧領と併せて三千貫(6千石)となり、櫛渕村に居城を築き苗字を櫛渕と改め、諏訪明神のほか諸社を建立した。永禄3年(1560)8月病死した。


史料2.「成立書並系圖共 秋元勘右衛門」の記述

 先祖の秋元和泉守盛貞は諏訪大祝盛澄の後胤で、信州上諏訪の城主繁野貞國六世の孫で、信州秋元の里を領地としていたところ、文亀2年(1502)に阿波国へ来たときに三好之長の支援を受け、之長の姪で板野郡大谷城主森伊豆守忠明の娘を娶り、細川家家臣となって那賀郡櫛渕村・三倉村を領地とした。

 文亀3年(1503)、那賀郡大野城主某の裏切りのため、盛貞は8月13日に討伐に出て9月5日に攻め落とした。その恩賞で、那賀郡のうち立江・古毛・荒田野・上大野・下大野の5村を領地に加え、旧領と併せて三千貫(6千石)となり、騎馬士150騎、徒士300人を抱え、居城を築き苗字をも櫛渕と改め、櫛渕村に諏訪・八幡・杉尾・天満宮・額明神の五社などを建立し、今は五社の丸と言い伝えられているが、額明神の社は無くなっている。永禄3年(1560)8月6日病死した。


◎諏訪大祝盛澄の後胤

 諏訪大祝とは、「すわおおほうり」と読み、諏訪大社(上社・下社)の最高位の神官で、上社大祝は諏訪氏、下社大祝は金刺氏、のち武居氏である。

 諏訪大祝盛澄は、金刺盛澄のことで諏訪盛澄とも呼ばれ、平安時代後期の諏訪大社下社の神官・武士である(生没年未詳)。当初は治承・寿永の乱での源義仲の挙兵に従ったが、御射山神事のため弟の光盛を留め置いて帰国した。平家の家人でもあったかことから、義仲の討伐後、源頼朝によって捕縛され、梶原景時に預けられた。頼朝は盛澄を処刑しようとしていたが、盛澄が藤原秀郷流弓術を継承する名手であったことから、景時は盛澄の命を奪うのを惜しみ、頼朝に説得を重ねた末、せめて盛澄の弓の技量を見てから死罪にして欲しい、と請願する。盛澄は頼朝のもとに参上し、鶴岡八幡宮放生会で流鏑馬を披露した。このとき頼朝は盛澄が騎乗する馬としてわざと暴れ馬を与えた上、盛澄が指定された八つの的を射抜くと、射抜いた的の破片、さらに立てかけた串を射抜くよう難題を押し付けてきたが、盛澄は見事に全て射抜いたため、赦免された。このとき、景時が同じく捕縛された義仲の郎党達にも寛恕を施して欲しい、と頼朝に願い出て、その郎党達もまた助命されたという。(吾妻鏡)

 その後は御家人となり、流鏑馬や的始の儀式で活躍した。史料では建仁3年(1203)までの活動が見られる。下諏訪町には盛澄が恩人の景時を偲び建立した梶原塚がある。(ウィキペディアより)


∴「秋元和泉守盛貞」は、諏訪下社大祝(下諏訪)である金刺盛澄(平安時代後期1100年代~1200年代)の子孫であると記述している。


◎信州上諏訪の城主繁野貞國の孫

 上諏訪(諏訪上社)の某城城主である繁野貞國の孫に当たる者が「秋元和泉守盛貞」であると記述している。


◎信州秋元の里

 不明


◎史料1、2ともに、信州から阿波へ渡ってきた際の動機についての記述がない。


◎細川家家臣となって那賀郡櫛渕村・三倉村を領地としたという経緯については、次のとおりであろう。

 那賀郡櫛渕村付近は、1017年に後一条天皇により石清水八幡宮司家の田中氏へ寄進された荘園「櫛渕荘」(くしぶちのしょう)で、櫛渕別宮とも言われた。しかし1221年の「承久の乱」後、新補地頭として「秋本二郎兵衛尉」が補任され、貞応(1222~1224)頃からその代官による非法が続き、八幡宮は鎌倉幕府に数度にわたり乱妨の停止を訴え出ている。1281年に領家方(八幡宮司家)と地頭方(秋本氏)の間で、下地中分、地頭未進分の弁済などの条件で和与が成立した。南北朝期の1334年には一時地頭職が八幡宮社家に付せられたが、1396年には守護請の地となっており、領家職ならびに公文田所職のみが八幡宮に残された。(参考 株式会社平凡社 / 百科事典マイペディア)これは石清水八幡宮司家に残された史料に基づくものと思われる。


∴このことから、櫛渕村周辺が守護請の地となった1396年以降、地頭職秋本氏による支配は終わり、代わって阿波国守護職であった細川氏による支配が続き、1502年から秋元和泉守盛貞に領有権が与えられたと考えられる。


6/25追加

文亀2年(1502)に盛貞は細川家の家来となって櫛渕村・三倉村が与えられたが、実のところ阿波守護細川氏は在京しており、同じ文亀2年に京から阿波へ下向し在国するようになった。阿波守護所を秋月から勝瑞へ移転した当初である。この時期が勝瑞発展の一大画期であるとされる。【三好一族と阿波の城館2018】

もしかすると、盛貞も細川成之に付き従い、阿波へ渡った可能性も考えられる。



史料3.盛貞の墓

 盛貞の墓とされるものは、櫛渕城の支城である奥条城の城址内にある。麓に法泉寺があり、その本堂内にある「本堂修復事業志納者芳名」の前文に、『当寺は、櫛渕城主秋元和泉守諏訪盛貞の菩提寺として建立され…』とある。その奥条城址に秋元氏の墓とされる宝筐印塔がある。その古い石塔の前側に並んで、少し新しい石塔が建っている。これが盛貞の玄孫である初代蜂須賀家臣の秋元幸左衛門成貞が建立した盛貞の墓石(*1)である。

 しかし、小松島市教育委員会の岡本和彦氏の解説によると、秋元氏は、承久の乱後に石清水八幡宮領櫛渕荘の地頭職に補任され、櫛渕の地で勢力を拡大し、戦国期まで存続した歴史を持ち、櫛渕城の築城年代は、鎌倉から戦国時代であるとしている。そしてその宝筐印塔も「秋元氏の墓とされる」とし、盛貞の墓とは決めつけていない。また、法泉寺についても秋元紀伊守(嫡子の盛之)が創建したとしている。(*2)

*1=櫛渕町史 *2=阿波志  (注)秋元氏=秋本氏と混同がある


◎盛貞の玄孫とされる幸左衛門成貞が建立した墓石は、「盛貞の墓石」として間違いないが、その後ろに並ぶ古い宝筐印塔は、「秋元氏の墓」とされているものの盛貞の墓とは確認できないが、盛貞以外には考えられまい。理由としてはこの城を支配していた当時、城主として没した者は盛貞しかいないからで、成公が1582年に長宗我部元親との戦で討死して、櫛渕氏による領地の支配が消滅した後に、城主ではなくなった親の盛之が没しているから、このような城内に丁重に埋葬されているのは、盛貞以外には有り得ない。


【結論】

◎文亀2年(1502)に信州から阿波へ渡ってきた信州の豪族であるらしいが、確かな出自は不明である。

◎転住の動機も定かではない。

◎転住して来たとするならば、あらかじめ阿波守護細川氏との間で、臣下となって細川方の与力となる話し合いが行われていたであろう(推論)

◎盛貞を供養する菩提寺「法泉寺」が創建されて今日まで存続し、盛貞嫡子「櫛渕紀伊守盛之」、盛之の嫡子「櫛渕左近佐成公」らは三好家臣として働いたこと。

◎櫛渕城・奥条城を築いたこと。これは嫡子盛之の代まで掛かったかもしれない。

◎転住早々に軍事力を発揮して領地を拡大しているところを見ると、相当の勢力を保有していたことがうかがえる。しかし隆盛を極めたのは、盛貞・盛之・成公までの三代で、成公のときに1582年「中富川の戦い」で十河存保側は敗戦し、旗下の櫛渕一族は没落したのである。


【疑問点】

 しかし一方では、鎌倉時代の地頭が起源であるという説も捨てきれない。それは秋元和泉守盛貞の出自と、阿波への転住動機が不明だからである。この2点が解明されるなら一気に解決する。

 前述したが、那賀郡櫛渕村付近は、1017年に後一条天皇により石清水八幡宮司家の田中氏へ寄進された荘園「櫛渕荘」(くしぶちのしょう)で、櫛渕別宮とも言われた。しかし1221年の「承久の乱」後、新補地頭として「秋本二郎兵衛尉」が補任され、入部当初から地頭代官による非法が続き、領家と地頭との間で60年間も争いが続いた後、1396年には守護請の地となり守護細川家の支配地となった。

 仮説であるが、その後は守護細川家による領知がなされ、地頭職であった秋本氏はその旗下に入った。同時に秋元と改姓し、次第に細川家内で実力を持つようになっていった。やがて1502年になり、細川家より秋元氏が櫛渕村・三倉村の知行地を与えられた。あるいはこの時点で秋本から秋元に改姓したのかもしれない。いずれにせよ、この事情は子孫に伝承されず、あるいは伝承されても、「成立書」には信州秋元の里から罷り越したとフィクションでの記述となった。何故かと言うと成立書提出時の江戸時代末期、主家である蜂須賀家よりも遥か昔から、この阿波の一角で地頭として君臨していた事実を、主家に遠慮して伏せたからである。だから秋元和泉守盛貞の出自が不明確であり、いきなり物語に登場することとなった、と見ることも出来る。

 話はそれるが、人は死ぬと墓に葬られる。江戸中期までは人が死んでも立派な墓石を建てられるのは、身分の高い者に限られていた。中世、盛貞の立派な墓石は建っている。江戸初期にも子孫がその隣に立派な墓石を建てた。しかし、盛貞以外の城主一族から続く墓は何処にあるのだろうか。ぜひ調査してみたいところである。


6/25追加

櫛渕村周辺に墓がある可能性があるのは、盛貞の他に、盛之、成公、長實、とその家族であろう。松實から先は蜂須賀家臣となって櫛渕村を離れ徳島城下に移ったので、そちらの方に墓があるものと考えられる。

ちなみに櫛渕駒藏家の墓は、徳島市東山手町3丁目18「瑞巌寺」にあるらしい。【櫛渕町史】

櫛渕史研究会

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