記録に残る戦国期櫛渕家の重臣

2020.3.13更新 櫛渕達夫

【大栗縫殿助兼正】Ooguri Nuidennosuke Kanemasa

 1503年(文亀3)秋元和泉守盛貞が攻め落とした、細川家に反抗した大野城主の家老。大野城主が生国から召連れてきた家老で、大野城落城後は大栗縫殿助兼正を大野城の城代に任じ、盛貞二男の次良五郎盛利が成長したところで、大野城に派遣し大栗兼正と交代した。(1835年.秋元成立書.p0082)(櫛渕町史.p129)

 秋元盛貞の家老、知行500貫。(櫛渕町史p128)



【庄野兵馬元吉】Shouno Hyouma Motokichi

 秋元盛貞の家老、知行400貫。(櫛渕町史.p128)



【小野利右衛門一延】Ono Riemon Kazunobu

 秋元盛貞の家老、知行100貫。(櫛渕町史.p128)



【大栗市太夫俛信】Ooguri Ichitayuu Fusenobu

 秋元盛貞の家老脇、知行300貫。(櫛渕町史.p128)



【武市清助豊義】Takechi Seisuke Toyoyoshi

 秋元盛貞の家老脇、知行300貫。(櫛渕町史.p128)



【織家長左衛門昌行】Oriie Chouzaemon Masayuki

 秋元盛貞の侍大将、知行200貫。(櫛渕町史.p128)



【万太郎】Mantarou

 秋元盛貞の嫡子で侍大将、知行150貫。(櫛渕町史.p128)

 櫛渕紀伊守盛之の元服前の幼名。



【大栗三郎兼長】Ooguri Saburou Kanenaga

 櫛渕家家老、大栗兼正の孫。

 1582年(天正10)、中富川の戦いで戦死。(1835年.秋元成立書.p0083)

 墓は、法泉寺裏山南麓に現存する。(櫛渕町史.p129)



【小野久米右衛門一房】Ono Kumeemon Kazufusa

 櫛渕家家老。

 1582年(天正10)、中富川の戦いで戦死。(1835年.秋元成立書.p0083)

 墓は、法泉寺裏山南麓に現存する。(櫛渕町史.p129)



【庄野甚兵衛光利】Shouno Jinbee Mitutoshi

 櫛渕家家老、庄野元吉の孫。

 1582年(天正10)、中富川の戦いで戦死。(1835年.秋元成立書.p0083)

 墓は、法泉寺裏山南麓に現存する。(櫛渕町史.p129)

櫛渕史研究会

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