下津村へ分家した櫛渕家

2021.9.16更新 櫛渕達夫

後閑村の櫛渕本家から分家した下津村の櫛渕家について、部分的に推測の域を出ない箇所もありますが、分家の経緯について筆者なりの考えを記しておきます。


【まず後閑村本家の由緒について触れておきます】

『真田信之』の沼田領主時代(西暦1590年~1616年)に、鹿嶋の地で剣術修行を積んだ『櫛渕主税宣常』(阿波国櫛渕村では『櫛渕五郎大夫成松』と名乗った)が、先祖が真田家と同じ信濃国であるという理由から、真田を頼って沼田へ転住し真田家の客分となった。以後は、真田家家臣となって2代『兵衛尉宣好』~3代『左近根常(常元)』と続き、『常元』の代で利根郡後閑村を領知した。天和元年(1681年)11月、4代『常久』のとき、沼田真田家が幕府より命じられた両国橋架け替えの用材調達について、その調達遅延と藩の悪政を咎められ、沼田真田家は改易処分となった。家臣諸氏は主家を失い散り散りとなった。櫛渕家は領知していた後閑村に帰農し、百姓の傍ら道場を開いて師弟を教え、5代『宣之』~6代『宜久』~7代『宣根(虚中軒)』と続いた。沼田真田家改易後は幕府直轄領時代が22年続き、元禄16年(1703年)沼田領後閑村は本多家の移封によって本多家の藩領となり、下津村は旗本大久保家の所領となった。この沼田藩領と幕府旗本領の関係は明治まで続いた。


【次に後閑村から下津村へ分家した経緯について記します】

後閑村の櫛渕本家から下津村へ分家した時期は、1681年の真田家改易により後閑村に帰農した4代『常久』の時代と推定される。なぜなら1703年以降における沼田藩領と旗本領に分かれてからでは、領主の違う他国の関係になってしまい、領地を跨いでの分家転住は容易ではない。4代『常久』の弟2人が分家したと思われ、分家先の下津村にある竹改戸区の伝承によると、下津村に後閑村から2軒の櫛渕氏が分家してきて、一方は後閑村の本家が見渡せる場所が良いと利根川沿いの高台に位置する下津村の滝合地区に住居を構え、もう一方は本家が見えなくても構わないと、ふじやま(荷鞍山)の向こう側に位置する下津村四ツ木地区に住居を築いたと伝わっている。この滝合地区の分家筋が代々『傳三郎』を名乗った家であり、筆者の系統である。名前から察するに本家の三男であったのだろう。四ツ木地区の櫛渕家は、代々『浅次郎』を名乗ったので本家の二男であったと思われる。この二男『浅次郎』から続く四ツ木櫛渕家は大正時代まで四ツ木に住んでいたが、桐生市に転出して両毛織物新聞社を設立した。現在では四ツ木地区に櫛渕家は存在しないが、同家の墓地が屋敷跡裏山にあり、江戸中期の古い墓石から大正6年に建てた一番新しい石塔までおよそ13基が確認できる。大正の石塔には櫛渕家の家紋(真向き月)が描かれ、建之者の名も『櫛渕勇次郎』と刻まれている。また、同じ竹改戸区の林家は、この家から婿養子を取っており縁続きになっている。


【参考に時代背景を記します】

寛永16年(1639年)沼田藩第4代藩主に『真田信政』が襲封する。以降、明暦3年(1657年)までの在位18年間のうちに、後年「開発狂」といわれるほど沼田領内の新規開田・用水工事等に力を注いだ。寛永20年(1643年)沼田領の検地を実施し、表高3万石に対し内高4万2千石を打ち出した。この時代は安定した時期で、沼田藩に限らず他の諸藩でも新規開田等に力を注ぎ、農業生産高も飛躍的に増えていった時期である。

幕府の命により正保元年(1644年)に作成された国絵図により、沼田城が五層の天守であったことが分かっている。当時、関東の城で五層の天守を備えていたのは江戸城と沼田城だけであった。

承応元年(1652年)後閑の四カ村用水が完成する。総延長13,227メートル、水田150町歩を潤した。(この開発事業に櫛渕家が直接関わったかどうかは調査不足で不明だが、この成果によって後閑村を領知できたのかもしれない)


【時系列で整理します】

1616年までに 鹿嶋での剣術修行を終えた『五郎大夫成松』は名を『主税宣常』に改めて沼田領主『真田信之』の客分となった。

2代『兵衛尉宣好』真田家臣となった(以降4代『常久』まで続く)

寛永16年(1639年)沼田藩第4代藩主に『真田信政』が襲封し、沼田領内の新規開田・用水工事等に力を注いだ。

承応元年(1652年)後閑の四カ村用水が完成

3代『左近根常(常元)』、利根郡後閑村を領知した。

寛文4年(1664年)『真田信吉』の二男『真田信利』の代、検地が終わり内高4万2千石から13万5千石に増加する。

寛文5年(1665年)真田家譜代家臣の『湯本図書』など7名が、知行地を没収され領主『信利』と軋轢が生じる。

天和元年(1681)11月、4代『常久』のとき沼田真田家改易処分。櫛渕家は後閑の所領で帰農した。

4代『常久』まで櫛渕家は武家であり苗字帯刀の身分であったが、主家が改易されたため帰農し百姓となった。5代以降は苗字を公に名乗ることができなくなり、代々当主は苗字の櫛渕の代わりに『彌兵衛』を名乗った。

下津村に分家した二男の系統の代々当主は『浅次郎』を名乗り、三男の系統は『傳三郎』を名乗った。


【下津櫛渕家が後閑本家から分家した時期を1681年頃とする根拠です】

①真田家改易により家臣の身分から帰農したことで分家が可能となり、また分家する財力もあった。

②1681年の改易で幕府直轄領となり、22年後の1703年に本多家が移封となるまでの間に分家転住しないと、後閑村は大名本多家の所領、下津村は旗本大久保家の所領になり、その後の転住が困難になるため。

③下津村の四ツ木櫛渕家の墓地を調べると、1700年代と思われる墓石が複数確認できるため。

④下津村櫛渕家の家紋は、後閑村本家の裏紋の『真向き月』である。後閑村に多数ある分家では、本家の表紋『五瓜に二木』や裏紋も使用していない。これは下津村櫛渕家が本家から早い年代での分家だったから使用を許されたものであると推測できる。


櫛渕史研究会

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