2020.2.25更新 櫛渕達夫
徳島県小松島市櫛渕町の町史から、「櫛渕家」に関する記述内容の抜粋を記載します。
第二篇 歴史
第二章 神領と地頭の時代
二.新補地頭秋本氏
―――――(以下抜粋)―――――
(町史p.119)
文治元年(1185)に源頼朝は関東の武士を地頭職として、平家没官の領地に配慮し、自ら総追補使となり武家政治の始まる基をひらき、これまでの国司や荘園支配に代わるものとした。更に承久の変(承久3年、1221)後、執権北条氏は後鳥羽院方関係者の所領を没収し、勲功のあった御家人に恩賞として与えて地頭職とした。これを文治2年の地頭(本補地頭)に対し、新補地頭と呼ぶが、櫛渕へは秋本二郎兵衛が補任された。阿波国守護として文治2年に補任された佐々木経高は上皇方に加担したために討たれ、代わって小笠原長清が信濃から補任されその子長房が、父の守護代として正治2年(1200)阿波へ来任し、佐々木氏の残党を神領の弓折で滅ぼした。後の三好氏、一宮氏をはじめ、この小笠原の一党が阿波の豪族となり、立江の小笠原氏も一族である。
秋本氏は来任早々八幡社別宮の神領を侵犯しはじめた。承久の変は承久3年(1221)5月から約一月で終わっているが、秋本氏はその年に補任されたであろう。が翌貞応元年(1222)には、石清水文書にある次のような鎌倉の下知状をうけている。漢文体の文であるが書き下ろすと、
「阿波国櫛渕別宮地頭秋本二郎兵衛尉代官として庄務に背き神民相伝の能田を択び取
り農業を濫妨するを早く停止しせむべき事
右訴状の如きは新地頭秋本二郎兵衛尉代官、神民等相伝の能田を択び取り、地頭分と号
して領作せしむるの間、各々残る所の薄田に避け農業を絶やし畢んぬ云云てえりは事も
し実ならば、地頭の所行甚だ自由なり。限りある本給田、本名分の外は、何ぞ庄務に背き
恣に他名を択び取るべけんや。慥に先例に任じ濫妨を停止し百姓を安堵・・・・」
(町史p.126~p.127)
豊臣秀吉は、長宗我部元親が四国全土を制覇した天正13年6月に八万余りの大軍をもって、四国の東・北・西の三方面から攻め入り、阿波へは羽柴秀長、三好秀次らが木津城を攻め、浮田秀家、蜂須賀正勝、黒田孝高らの讃岐上陸隊と合流し、一宮城・岩倉城を攻めたので、白地域にあった元親も7月25日、和を請い、土佐一国が与えられた。長宗我部元親の阿波領有も三ヶ年の短日月であった。
四国征伐の功によって蜂須賀家政は阿波を賜ったが、子家政にと請い、従って阿波の初代は家政ということになった。
さて、秋本家はその後どうなったであろうか。承久の乱後櫛渕地頭になって以来、子孫がこの地に住みついて280年。この間の記録がない。が徳島県史、小松島市史とも戦国秋元氏とは同一家としてつづいていると説いていて恐らく誤っていないと思われる。一旦信州へ帰って、再度来村したとは考えられない。
が、再び名の出るのは文亀2年(1502)である。秋元系図によれば、この年秋元和泉守盛貞は信州秋本城主であったが、武田晴信に敗れて阿波に落ち、三好之長を頼ったと記している。がこれは少し怪しいと思われ、晴信の信濃侵攻は天文末年のことで50年後のことである。この辺の事情は斉藤晋春が「八幡神社考」に、田所眉東が「立江町史」に述べている。現存の「秋本家成立」や「櫛渕氏系図」は各家とも同じものを伝えているが、実は蜂須賀氏へ提出したもので資料不足の上に、蜂須賀の名流嫌いに遠慮する面もあったかもしれない。足利公方に足利を名乗らず平島を名乗らせ、細川氏も糸田川を、小笠原氏も小原、笠原などを名乗らせたのと同軌であり、新領主は古い支配者色を一掃したかったであろう。喜田博士もいわれるように寛文以前の事蹟は蜂須賀氏によって抹殺され、阿波の墓石もそれ以前のものはほとんどない。それ以前の位牌、過去帳を埋めたという石塚が喜田家の墓地にあったほどである。蜂須賀家政とほとんど同時代に生きた儒者、小瀬甫庵の書いた「太閤記」によれば、蜂須賀正勝が初めて秀吉に矢矧橋で出会ったとき、正勝は野盗の類であったと記している。(事実はかなりの豪族であったらしいが)こうした本が流布されることは、家政にとっては迷惑であったろうし、名流の存在は煙たかったであろうから。遠慮深謀、権謀術数の家政の施策には十分あり得たことだろう。
秋元盛貞は後細川氏に仕え櫛渕・三倉を領し、細川氏に背いた大野城主を討って、立江・古毛・荒田野・上大野・下大野5か村を新たに加え、3千貫(1貫は5石)を領したと称している。平島公方3千貫に比べて過大であるといわれるが、7か村を領有すれば3千貫も不自然でなく、伝える盛貞の家老・家老脇・大将7名に2千貫を与えたとあり、騎士150人、歩卒300人とあれば、数字の上からはあながち過大とはいわれない。が「古城諸将記」に見る阿波国諸将の例から見ると、やはり過大というべきかもしれない。櫛渕に住んだから姓を秋元とも櫛渕ともいい、同族に宮内氏がある。宮内氏は字宮の内に住んでその跡は今も宮内屋敷として名が残っている。八幡神社を祭り、信州から諏訪神社を分祀し、また、杉尾社(諏訪の父母兄嫂を祭る)、額明神(諏訪の子孫を祭る)、天神社を祭り、これを櫛渕五社と称する。ただ八幡社は宮の内にあったのを勧請したものか、細川義則が新たに祭ったものか、盛貞が祭ったものを義則が規模を大に祭式を本格化したものか。後述するが之照の館を蜂須賀家政が訪れたとき之照は五山神社のことを家政に話しているから、やはり秋元盛貞が宮の内の古八幡社を遷宮したのであろう。神宮寺に僧雲弁を置き、法泉寺に南厳和尚をおらせ菩提寺とした。櫛渕城は櫛渕五山(五社)の第二山。山城として館を建て防塁を四周に廻ら
(町史p.128~p.129)
す程度、南斜面にも同じような曲輪を築き、城の南北に壕をかまえ、山麓の東西に井戸が現存する。騎士150人、歩卒300人は秀吉の刀狩り以前の武士だから平時は村民として農業に携わりつつ武芸に励み、いざというとき武器をとったに違いない。「抑々阿波国より御上洛の儀は年々あらまし有り」とあるように、細川・三好両氏の畿内への出兵はほとんど毎年のことで、阿波軍の精鋭ぶりは京師を震駭させている。櫛渕城が攻められて戦った記録はなく、(一部伝承はあるが)事実、長宗我部氏の侵攻のときも勝瑞や中富川に三好軍の配下として加わっている。時に応じ南に北に出陣したに違いない。「立江町史」によれば、立江の青木・鬼日は古代の城(キ)であり、櫛渕湾が海賊の一大根拠地であり櫛渕の木戸の内も城戸としてそれに関連しているとし、また中世の櫛渕城も、青木・鬼日・清水を前城とし櫛渕城下の深田・奥城・中城を防塁の一線上に重層的に配し、中城から奥城へ騎馬武者を秘匿する深い空壕を用意したと説明している。(139頁に本田昇氏解説)
櫛渕城の軍勢の人数は村全体の壮丁を示すであろうし、7ヶ領村のそれをも含むものかもしれない。士農未分化の時代で、専業武士は特別の上層を除いては、いなかった。櫛渕城などの小領主は、むしろ筋骨、知力にすぐれ経営の才もあった農業のベテランであったろう。農民支配のため武芸だけでなく農業、農政にも通じ、用水や肥料の確保や土木工事にも長じていたことが多い。農業振興は食糧の確保となり、経営力の向上が軍事力を向上させ、領土拡張の力を高めるから農業に励み、励ませたであろう。荘園時代は別として、中世では村全戸が武士であったと思われる。
秋元盛貞の家老として大栗縫殿助兼正500貫、庄野兵馬元吉400貫、小野利右衛門一延100貫の3人。大栗市太夫俛信、武市清助豊義2名が各300貫で家老脇。織家長左衛門昌行200貫、嫡子万太郎150貫で侍大将といったところが頭領格である。
「立江町史」は常三島町秋元家の系図を掲げたらしいが、これに従って秋元家の系図を妙出する。盛貞は永禄3年88歳で死去し法泉寺山上に葬る。今日竹藪の中に残る「清海院殿幽峯哲翁大居士」の墓は江戸末期に、常三島秋元家の子孫が建てたもので、元は小五輪である。盛貞の子盛之は櫛渕紀伊守と称した。その弟盛利は次良五郎と称した。初め家老大栗兼正が大野城代であったが、盛利が成長の後代わって城代をつとめた。が盛利は、嗣子や末女が夭死したのをはかなみ、城外に草庵を結び仏門に入った。盛之の子成公は左近と称した。三好長治の死後、病気治療のため京師にあった成公は帰国し、父と交互に勝瑞城に趨き忠節を励んだ。天正10年、中富川の戦いで、長宗我部軍を迎え撃って戦死したことは前述した。この戦いで大栗兼正の孫三郎兼長、庄野元吉の孫甚兵衛光利、小野久米右衛門一房らも討死した。この3人の墓は法泉寺裏山南麓に現存する。成公の長子長実は17歳であったが長駆けして中富川に父の死骸を探し求めて帰り葬った。長実も紀伊守と称したが19歳で死去した。次子松実は初め祖父の弟盛利の家を継ぎ次良五郎と称し、天正10年長宗我部方の武者を立江で討ったが、12年兄長実の死によって本家を継いだ。翌13年(1585)蜂須賀家政が入国し一宮城に拠った時、弱冠19歳で、弟成松と騎士35騎を率いて一宮城に至り、家政に奉公を誓って喜ばれ300人扶持の約束を受けた。長宗我部氏の侵入、細川三好氏の争闘と滅亡、秀吉軍の侵攻につづく蜂須賀氏の入部など混乱の中に、国家の統一と阿波の安定を見通して、国内の諸将より先にいち早く家政に謁見したのは、彼の先見の明であったといわねばならぬ。旧態に泥んで新来者を白眼視したり反抗したり、新旧は衝突しがちなものである。彼が新主にすっきり臣従したのは、一つは父祖を相ついで失った孤独の感情であり、一つは若さゆえに世間体を顧慮するものがなかったからであろう。がもう一つ注目せねばならぬことは、天正10年の中富川の阿波、土佐の一大決戦に、秋元成公は三好方(南海治乱記の天正10年8月28日
(町史p.130~p.131)
の記録では土佐方としているが、これは誤りと思う)で、親族である細川之照は長宗我部方、村内二分の後遺症があったことである。たかが選挙でも、しこりが長く残ることを現代の我々も知っている。まして、細川氏には旧遺臣の仁木・大栗・服部氏や長宗我部氏の臣で細川氏らと一味した浜田氏らが、長宗我部氏の撤退の後、櫛渕へ入村してきたのである。村内で実権も経済力も失った秋元松実・成松兄弟には、何代かに亘って阿波の守護として仕えてきた細川氏が、もともと煙たい存在であり、今は養子縁組をした間柄となっていても、「庇を貸して母屋までも」の観を呈してきた。剣戟を交えた人々に囲まれていづらいところで、時代を察知する眼も、変化に対応する変わり身の速さも、兄弟の若さがもたらしたものだろう。三好方の秋元氏は敗れ、勝った長宗我部方の細川氏以下も、今はともに空しく、新来の蜂須賀氏の支配下にあり、沈滞から脱却して活路を見出したかったのかもしれない。
家政に仕えた松実は仁宇谷一揆に案内をつとめた功もあり、正式に300石が与えられたが、文禄元年(1592)朝鮮征伐に参加して4月晦日戦死した。年26歳。その子所左衛門之盛はまだ2歳で、櫛渕の親類に養われ17歳になった慶長12年、家政に召され、台所総奉行を命じられたが病死。3代次良五郎盛房も幼少であったので親戚に預けられ、成人してのち家政の折紙の半形を差出し願い出たが、家政既に亡く、時代も事情も変わっていたので御徒歩士3人扶持8石という下級士に加えられ、幕末までその身分で住んだ。櫛渕姓を名乗り、幕末の櫛渕駒藏へと続く系統と思われ、墳墓は瑞巌寺にあり、今次大戦末まで東富田下代丁に住んだ。戦後南矢三町に移り、戦災でいっさいを、伝承をさえ失い、菩提寺もその後火災にあい、過去帳を失った。同家に残るのは墓と家紋入りの風呂敷だけとなった。鮎喰町にいる櫛渕家には、立江町史の秋元家、小仁宇の秋本家と同じ系図を伝えている。櫛渕姓を名乗るのが徳島市内及び県内に約10戸いるが、みな同じ系統と思われる。
櫛渕松実の弟成松は、兄と共に蜂須賀家政に仕え、仁宇谷一揆に功をたて200石の地を与えられるお墨付をもらいながら、家政が入国当初の騒動に紛れて3年約束を果たさぬことを憤って、大坂へ去ったといわれる。その子成貞は秋元を名乗り、慶安元年蜂須賀至鎮に約束通り抱えられたが知行は当人でないためもあって、100石。常三島伊勢丁に住んで、のち先祖盛貞の墓も建てた。明治までその知行がつづいた。現在下助任に子孫秋元侃浩氏が住んで、平成元年3月の法泉寺灌頂供養にも参列し700年来の櫛渕との関係を連綿とつづけている。
成松は「阿波志」や「細川家記」によれば、村を出たあとようとして「終わる所を知らず」とあり、「秋元系図」では、蜂須賀家に遠慮したのか、大坂にあって慶長6年卒すとしている。が実は上州沼田の真田昌幸に仕えて櫛渕宣常と名乗っている。先祖が同じ信州出であり、昌幸の智謀と勇猛を慕っての仕官か。既に大坂の役に真田麾下として活躍していたという。関ヶ原の戦いの後、昌幸は改易され九度山で没したから宣常も禄を離れ、月夜野町後閑に帰農した。代々剣術に励み、7代宣根は神道一心流を開き、薙刀にも長じた剣豪となった。身長5尺8寸、寛政の初め江戸へ出て神田に道場を開き、名声高くやがて一橋家の師範となり、高山彦九郎と親交を結んだ。その子孫に櫛渕鍹一中将が出た。上州に残った櫛渕家は現在20数戸にふえ、群馬県内や東京に在住する子孫も多い。幕末に櫛渕氏は先祖以来の言い伝えによって、阿波の櫛渕駒藏に照会してその系図を完成している。
小仁宇の肝煎郷鉄砲となった秋本衛門五郎盛行は天正14年に家政から命をうけ、代々庄屋として明治に至っている。
第二篇 歴史
第三章 近世の櫛渕
一.細川氏の入村と秋元氏の離村
(町史p.144~p.145)
慶長検地帳に見える櫛渕の名負田は、ぬい(細川縫殿助)、新兵衛・助三郎・新九郎・三郎兵衛・吉兵衛などが多く所有しているが、この名負はその後も変更されないで固有名詞化するものであり、これらは旧城主としての経済力と労働力をもって入村し、手広く開墾したものだろう。これらの入村と開墾と名負の時期が一致するのである。だから櫛渕村の開拓の大半は新作・沖台・北佃・内開・外開等、案外新しく慶長ごろと推定するわけである。
細川氏の親衛隊が入村し帰農して耕作する村で、新太守蜂須賀氏に一国一円没収された櫛渕城主秋元松実が360年余り住んだ、父祖伝来の櫛渕村に見限りをつけて、新太守の許へ走ったのは無理もないことだった。ただ新旧の衝突があり、中世の村風が一変し、人口の転出入も多く、地頭家の数多い文書資料も多く失われたであろう。
細川氏は、平島公方に次ぐ国内の名流であり、新太守にとっては統御上好ましからぬ存在である。細川を糸田川と呼ばせ、政所のち庄屋に取り立て懐柔した。立江の小笠原氏も同様である。糸田川家は明治までほとんど大半の時代、庄屋役をつとめるのである。糸田川家にも浮沈はあり、大栗氏・柴田氏に庄屋が移ったこともあり、都合が悪くて、一時古毛の吉田家が兼帯庄屋となったこともある。
細川之照が金瘡を病んで慶長元年(1596)36歳で死去し、子縫殿助義則が跡を継ぎ、同9年国中一統の検地があって以来、年貢上納となった。家門の中興を願う義則は、家業に励み、家例を興し、祭儀を重んじ、櫛渕細川家の基礎を築いた。義則の長男を治兵衛義経というが、元和年間、蜂須賀氏より淡路の代官を命じられたが、病身の故を以て辞退し、代わって庄屋を命じられた。治兵衛の子が早世したので、弟の徳左衛門長重が家を継いだ。治兵衛の病名は役職辞退の方便と見られないこともないが、徳左衛門は正真正銘の病弱で、公務も家業もつとまらず家計は傾くばかりで、次の清兵衛元則は病父のために山林田地の過半を失った。次の三郎左衛門時則は父と共に奮発して家業に励み、身代を元に復した。
第四篇 宗教と文化
第一章 神社仏閣と各種宗教
(町史p.516~p.517)
【諏訪神社】
「お諏訪はん」と愛称で呼ばれる諏訪神社は、櫛渕町字諏訪86番地の小高い山裾に鎮座する。本宮は、長野県諏訪市にある諏訪神宮上社であり、祭神は建御名方命をお祀りしてある。
我が櫛渕へ勧請されたのは、文亀2年(1502)に、櫛渕城主秋元和泉守盛貞が信州より阿波に来たときに、秋元氏の氏神として、上社より勧請され五山の中央の山に祀られていたが、寛文2年(1662)に、現在の秋葉神社のところへ、仁木清太衛・庄野清太夫・秋元兵衛の3人が遷宮、その後、有賀家先祖が現在の社地を寄付し、細川・仁木・庄野・秋本の4人が総代となって現在の地へ、延宝3年(1675)8月17日神殿、拝殿が建立、落成されたという。
祭礼日は、その昔は9月26日、7日であったが、現在9月14日、15日に行われるようになった。現在、境内地100坪、本殿、拝殿2棟の建物があって、氏子200余戸となっている。
(注)祭神 建御名方命
出雲の国、大国主命の次子で、武勇に秀れ、武御雷命と国譲りの交渉のことで敗れて、信濃国へ退き、天照大神の命令に従った。武勇の神、農業の神として崇敬される。
なお、諏訪神社境内社として次の三社がある。
若宮神社 祭神 豊石窓命
額神社 祭神 櫛石窓命 「立江町史」では秋元盛貞の諏訪子孫合祭
杉尾神社 祭神 久々能知命 秋元諏訪の父母兄嫂合祭
(町史p.532~p.533)
【法泉寺】
曹洞宗、大本山永平寺((高祖道元禅師、寛元元年(1243)開創)福井県吉田郡永平寺町志比)の直末である徳島市丈六町、慈雲院丈六寺(文正元年(1466)、阿波讃岐二国守護、細川成之創建)の末寺である法泉寺は、櫛渕町の西方、字山口の南北に横たわる小高い山ふところにあって、その名を九谿山法泉寺と称し、慶長3年(1598)9月、櫛渕城主、秋元和泉守盛貞の物心両面に亘る援助によって開基、初代角翁玄麟大和尚を迎えて開山以来、約400年、現住職隆昭卓児大和尚で第18代目を数える。櫛渕町に現存する唯一の禅宗の寺院であって、本尊は釈迦如来(木像坐躰御丈9寸5歩)、道元禅師、観音菩薩(木像座躰4寸5歩)の3座を祀られている。ところで明治19年に、法泉寺十五世住職秋月道庵、檀家総代環彌三郎、同高木開三郎、同浜田綱五郎、檀家総代連名よりなる当時の寺籍、財産明細書が残されている。
寺籍 財産明細帳(開創の項のみ)
阿波国 勝浦郡本庄村丈六寺末
同国那賀郡櫛渕村字山口176番地
法地 法泉寺
一 開創 年暦月日是不詳 開基清海院殿幽峯哲大居士永禄三庚申年八月六日卒石碑
アリ往古ハ仏成寺ト号シ候 寺跡田地二字ニ相成居候 開山示寂ハ慶長十一丙午年九
月四日也 中興開基秋元石見守清涼院雄山大英居士ハ位牌又ハ石塔ニモ無之秋元氏遠
孫現今本国名東郡常三島町ニ住ス毎歳七月廿七日参詣アリ正徳四庚午伽藍不残焼失ニ
及ヘリ此際法泉寺ト改号ナル旨ト備考ス現今ノ地へ仮リ堂タル
久シ天保四癸巳年四月中興十一世孝国義順和尚堂宇悉く再建相成候也
この報告書(その筋へ提出したもの)は、明治19年(1886)今より101年前に、当時の寺関係先人が調査した結果のもので、今日に至っては宝泉寺の往古を知る貴重な存在であると考えられるものである。
その後の調査によれば、開基は慶長三戊戌年(1598)9月、秋元和泉守盛貞で初代住職は、角翁源麟の開山である。慶長2年(1597)より秋元和泉守の援助によって建設に着手、翌年9月中旬に完成し、落慶祭を挙行したとある。秋元氏よりは、100貫分(石高にして500石)を毎年、当時の維持費として下附されていたという。
開基秋元和泉守の戒名が清海院殿幽峯哲大居士で、永禄3年8月6日没の石碑があり、その頃寺名を、仏成寺と称していた。その寺跡は、田地に相成っており、開山の角翁源麟は、慶長11年9月4日寂となっている。その後、中興開基したと言われる秋元石見守清涼院雄山大英居士の位牌、また石塔もなく、ただ秋元氏の遠孫に当たる人が、現在(明治19年頃)常三島町に住んでいて、毎年7月27日に参拝に訪れている。
この仏成寺は、正徳4年(1714)に、伽藍(寺の建物)を全焼してしまった。これを機に、法泉寺と改称したと考えられる。そして現今の地に移転して、長らく仮堂であったが、天保4年(1833)4月、十一世、中興孝国義順和尚が堂宇(本堂)全てを再建したものであるとの報告書である。
これから考えると周知の如く、元の寺跡は現在地の南下の水田(戦後の農地改革で農地解放地となる)で、その当時は仏成寺と呼んでいたが、火災にあって全焼、現在地へ移転今より154年前、法泉寺としての伽藍を建設、今日に立ち至っているものである。
境内の広さ384坪。本堂、縦6間半、横6間。庫裡(僧侶の家族が住む所)縦6間半、横4間。玄関、縦3間、横2間半。浴室、縦1間半、横2間。長納屋、縦7間、横2間。東司(便所)縦2間、横1間半。鐘楼、9尺4面。
(町史p.540)
【櫛渕城主秋元盛貞之墓】
法泉寺山上、竹藪の中にある。盛貞の十二世孫にあたる当主が墓碑を建て替えて新しいものとなっている。その墓碑に次の如く刻記されている。
表 清海院殿山峰哲翁大居士
裏 高祖墓表文字漫滅今改作之従皇考之遺命也 十二世孫謹誌
秋元和泉守盛貞 永禄三年庚申八月六日没
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