1185(文治1)年、源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ち、全国に守護・地頭を置いて鎌倉幕府を開いた。しかし西国における朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の2頭政治の状態にあった。朝廷の後鳥羽上皇は、多芸多才で武芸にも通じ狩猟を好む異色の天皇であり、それまでの北面武士に加えて西面武士を設置し、軍事力の増強を図っていた。後鳥羽上皇の財源は諸国に置かれた膨大な荘園群にあった。ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり、荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と紛争を起こすようになった。
1221(承久3)年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げた。承久の乱である。日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力闘争である。朝廷側は大敗を喫し、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島へ配流された。後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収され、その支配権は幕府が握った。朝廷方(京方・院方ともいう)の公家・武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられ新補地頭が大量に補任された。
このような中、阿波国の「櫛渕荘」(くしぶちのしょう)にも幕府より「秋本二郎兵衛尉」が地頭として補任された。いわゆる新補地頭である。櫛渕荘とは阿波国那賀郡にあった石清水八幡宮領(いわしみずはちまんぐうりょう)の荘園で、現在の小松島市の南西山間部に比定される。別名で櫛渕別宮ともいわれた。1017(寛仁1)年に、後一条天皇により寄進され、石清水八幡宮司家の田中氏に伝領された。秋本二郎兵衛尉の入部直後の1222(貞応1)年から良田を地頭分と称して押領するなど、激しい地頭非法を展開した。八幡宮側は鎌倉幕府に訴え、非法停止の六波羅下知状を受けるが地頭非法は止まず、争いは秋本左衛門次郎泰恒の代まで60年にわたり続いた。地頭非法の行為については「泣く子と地頭には勝てない」ということわざがあるほど酷いもので、「道理の通じない者や権力者にはどうしても勝てないから、無理を言われても従うしかない」という意味である。
それ以降、地方の在地領主である武士の土地所有が法的に安定したため、全国的に開墾が進んでいった。土地の相続に関しては分割相続が採用されていたが、そのため時代を下るごとに御家人の所領は零細化され、御家人の生活を圧迫することになってしまった。
この秋本二郎兵衛尉が約280年後の秋元和泉守盛貞に繋がってゆくとなると、櫛渕家のご先祖様は随分なことをしていたと思わざるを得ないが、これも時代の趨勢なので仕方がない。
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2019.04.25 02:35
2019.03.09 04:04