2019.04.22 10:02秀吉による沼田領問題の裁定 1582(天正10)年、甲斐・信濃・上野を舞台に繰り広げられた戦いを「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)といいます。その概要を簡単に言えば徳川家康と北条氏直の戦いで、天正10年6月の本能寺の変後、織田家から離れた北条家が武田の旧領に侵攻したことにより、織田体制下の大名である徳川家康がその討伐に当たったことによる紛争で、周辺の上杉景勝や武田遺臣の真田昌幸、さらには地元の国人衆などを巻き込んだ複雑化したものとなりました。最終的には講和によって終結し、上杉家は信濃北部4郡を支配、甲斐・信濃は徳川家に、上野は北条家の切取り次第で決着をみました。 しかし上野は領有争いの激しいところで、関東管領山内上杉家が支配していたときに、1552(天文21)年、北条氏...
2019.04.12 11:17櫛渕家家紋2020.9.14更新 櫛渕達夫 櫛渕氏の前の氏、つまり苗字が櫛渕に変わる前は秋元氏であった。 そして、秋元姓発祥の地は上総国周淮郡秋元荘(千葉県木更津市・君津市・富津市の一部)で、宇都宮頼綱の子・泰業が13世紀前半に本貫地としたことに始まる。後に師朝のときに秋元の名字を名乗ったという。 1221年頃、その宇都宮頼綱の娘が信濃国(長野県)の知行国主であった藤原為家(藤原定家の嫡男)に嫁いだ後、秋元氏の親族が信濃国下諏訪で金刺氏配下の豪族となった。後に諏訪大社の上社・下社の争いの中で上社諏訪氏に追われた秋元氏は1502年、信濃国守護小笠原氏・阿波国守護代三好氏の支援を受け阿波国櫛渕村(徳島県小松島市櫛渕町)に逃れて櫛渕氏に改めたという。 阿波国で守護細川...