秀吉による沼田領問題の裁定

 1582(天正10)年、甲斐・信濃・上野を舞台に繰り広げられた戦いを「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)といいます。その概要を簡単に言えば徳川家康と北条氏直の戦いで、天正10年6月の本能寺の変後、織田家から離れた北条家が武田の旧領に侵攻したことにより、織田体制下の大名である徳川家康がその討伐に当たったことによる紛争で、周辺の上杉景勝や武田遺臣の真田昌幸、さらには地元の国人衆などを巻き込んだ複雑化したものとなりました。最終的には講和によって終結し、上杉家は信濃北部4郡を支配、甲斐・信濃は徳川家に、上野は北条家の切取り次第で決着をみました。

 しかし上野は領有争いの激しいところで、関東管領山内上杉家が支配していたときに、1552(天文21)年、北条氏康が上杉憲政を退けて支配地としました。憲政は管領職を越後の上杉謙信に譲り、謙信は関東管領として関東へ侵攻するようになり、北条家との上野をめぐる争いは激化しました。また武田信玄も西上野に度々侵攻しており、岩櫃城・箕輪城を攻略して吾妻郡・箕輪城以西を支配しました。謙信の没後、上杉景勝と武田勝頼は同盟を結んだため、上野をめぐる争いは武田と北条になり、勝頼は、家臣の真田昌幸に沼田城を攻略させ、北上野の2郡(吾妻・利根)を支配させました。

 この真田昌幸による沼田領の支配が続いている中、大大名同士の講和により沼田領を北条に引き渡すことになり、徳川から引渡しを求められ真田は代替地を要求して、両者の関係は悪化しました。真田は上田城に本拠を移し、上杉に寝返り徳川と敵対することとなりました。これを沼田領問題と言っています。1585(天正13)年、第一次上田合戦で徳川は上田を攻めました。同じくして北条側も沼田に攻め入りましたが、真田はいずれも撃退し守り抜きました。

 1589(天正17)年、この沼田領問題に対し秀吉による裁定が出ました。裁定内容は、沼田領のうち沼田城を含む3分の2を北条家へ、名胡桃城を含む3分の1を真田家とする分割案でした。また領地の3分の2を失う真田家に対しては、代替地を徳川家が補償するというものでした。北条家はこの裁定に不満であり、沼田領の全てを求めたが受け入れられなかったということです。この裁定による領地引渡し後の11月、北条家臣猪俣邦憲の謀略により、名胡桃城が奪われるという事件が起こりました。これが、秀吉が発令した惣無事令に違反したとみなされ、小田原征伐のきっかけとなりました。

 この沼田領問題に対する秀吉裁定の分割線については、従来から曖昧な解釈となっていました。大雑把に「利根川を境に沼田城を含む東側を北条に、名胡桃城を含む西側の赤谷川までを真田に」という内容でした。しかし、以前私が勤務していた職場の先輩で、郷土歴史研究家の赤見初夫先生の発表された研究論文「名胡桃城奪取事件とその周辺」によりますと、具体的な分割概念を成果として出しておられますので、ここでは簡単に示したいと思います。

 まず、分割裁定の細かい内容を示す一次史料は存在しないということです。ですから割譲後の北条側の宛行状・年貢催促状、及び『加沢記』の記述に頼らざるを得ないということのようです。

 『加沢記』についてですが、加沢平次左衛門(1628(寛永5)年~1692(元禄5)年没)という沼田真田家臣が執筆した覚書で、内容は主に戦国時代後期の1541(天文10)年から1590(天正18)年までの50年間にわたる利根・吾妻の軍記などを集めたもので、実際の執筆時期はおよそ100年後の沼田真田家が改易された後1681(天和1)年頃で、当時の史料、現地調査・口伝を基に著されたものが、明治時代になって浄書編集されて『加沢記』として一般に知られるようになったものです。

 『加沢記』の分割概念を記した部分では、「小川の城利根川を限り東郡川田、大平、不動沢限り領地三ケ二の処北条へ被付、名胡桃の城より利根北郡黒岩を限吾妻郡三ケ一の処真田へ附」と書かれています。訳すと「小川城の領域(小川城周辺以北)、利根川を境に東全域、(南の方に来て利根川の西岸の)川田、大平、不動沢を堺とした真田領の3分の2を北条が受け、名胡桃城の領域(南は不動沢で区切った)から利根川(西岸)の北地域は黒岩を境に吾妻地域で、3分の1を真田へ付ける」というような感じになります。名胡桃城よりも南側の部分が大きく北条側に取られていることが従前の解釈と違っています。赤見氏がこの分割線の結論を出すことにあたり悩んだのが、不動沢の比定だったそうです。もちろん地図上に不動沢の記載などありませんし、沢といってもV字状の谷になっているだけで流水量はほとんどありません。現地調査と聞き込みの結果見つけたそうです。 


【従来の解釈】



 【赤見氏の解釈】



【先日、私が写してきた不動沢と朽ち果てた不動堂】 

ここが、真田領と北条領の境界となった場所です。 

櫛渕史研究会

本サイトは、櫛渕の苗字の成立ちから現在までについて調査研究したもののうち、公開可能と判断できる内容を掲載し、櫛渕について興味をお持ちの方にご覧いただくことを目的としています。

1コメント