成立書並系圖共 秋元勘右衛門

2019.6.15更新 櫛渕達夫


 群馬の櫛渕家始祖と見られる櫛渕宣常(改名前は、櫛渕五郎大夫成松)に繋がる、阿波国蜂須賀家家臣の秋元家成立書について、ほぼ完全な形で全文を掲載します。(部分的に不明な文字があるため、■で表示しています)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


   成立

     成り立ち


先祖秋元和泉守盛貞儀者諏訪大祝盛澄之後胤

先祖 秋元和泉守盛貞儀は 諏訪おおほうり盛澄の こういん

・後胤=子孫、すえ、後裔

信州上諏訪城主繁野冠者貞國六世之孫二而

信州 上諏訪城主 繁野 冠者 貞國六世の孫にて

・冠者=若者、若輩、かじゃ

同國秋元之里領知仕罷在候所

同國 秋元の里 領知つかまつり まかりあり そうろう ところ

・同國=信州を指す ・領知=領有支配 ・仕=する、行う ・罷在=あります、おります

文亀二戌年 御國江罷越当時

文亀2戌年(1502年) 御國へ 罷り越し当時

・御國=阿波国を指す ・罷越=参上する、参る

三好筑前守之長二寄含仕候之長懇二扶助仕候

三好筑前守之長に 寄り含み仕り候 之長 ねんごろに 扶助仕り候

・寄含=頼って身を寄せる ・懇=親切丁寧、親密 ・扶助=力を添えて助ける 

之長之姪板野郡大谷城主森伊豆守忠明娘ヲ娶

之長の姪 板野郡 大谷城主 森伊豆守忠明娘を娶り

細川家幕下二罷成那賀郡櫛淵村三倉村領知仕候

細川家幕下に罷りなり 那賀郡櫛渕村 三倉村 領知仕り候

・幕下=配下、家来 ・罷成=ある状態にいたる

・細川家=阿波守護家、14世紀中頃、細川頼之の弟、詮春に始まり10代、真之のときに滅亡した。真之は細川家の家宰(筆頭重臣)三好長治の悪政を断つため長宗我部元親と手を結び長治を滅ぼしたが、天正10年に長治の弟である十河存保の攻勢を受け自刃、阿波守護家は滅亡した。

翌三亥年同郡大野城主某細川家二相背信二附

翌3亥年(1503年) 同郡大野城主なにがし 細川家に 相背信につき

八月十三日盛貞儀右為討手罷越

8月13日 盛貞は 右の為 討手として罷り越し

九月五日攻落候二附其領之内

9月5日 攻め落とし候につき その領のうち

立江古毛荒田野上大野下大野之五ヶ村

立江 古毛 荒田野 上大野 下大野の5ヶ村

為恩賞領知仕旧領共三千貫二相成

恩賞のため領知仕り 旧領共に3千貫にあいなり

・貫=2石 ・3千貫=6千石

騎馬之士百五十人士三百人相抱置櫛渕村二

騎馬のさむらい150人 さむらい300人 相抱え置き 櫛渕村に

居城を築候而苗字ヲモ櫛渕ト相改同村二

居城を築き候 しかして苗字をも櫛渕と相改め 同村に

・居城=櫛渕城、奥条城

諏訪八幡杉尾天満宮額明神之五社■

諏訪 八幡 杉尾 天満宮 ぬか明神の五社■

別当神宮寺等建立仕候此所今ハ五社之丸ト

別当 神宮 寺など建立仕り候 此の所 今は五社の丸と

申傳候右之内額明神之社ハ無御座候

申し伝え候 右のうち 額明神の社は 無く御座候

・御座候=いらっしゃいます、ございます

永禄三申年八月六日病死仕候

永禄3申年(1560年)8月6日 病死仕り候

(右盛澄ヨリ盛貞迄代々之名細川家之名

(右盛澄より盛貞まで代々の名 細川家の名

大野城主之姓名惣分相分不申候)

大野城主の姓名 全ての分 相分からず申し候)

大野城主生國ヨリ召連候家老大栗縫殿助兼正ト申者

大野城主 しょうごくより召し連れ候 家老大栗縫殿助兼正と申す者

城番二指置後二男次良五郎盛利成長二至指遣候

城番に指し置き後 二男 次良五郎盛利 成長に至り 差し遣わし候

・城番=城代を補佐した役職 ・指置=逗留させること ・指遣=差し向ける、派遣する

盛貞倅紀伊守盛之家督相続仕天正十二申年十一月

盛貞せがれ 紀伊守盛之 家督相続仕り 天正12申年(1584年)11月

十八日病死仕候盛之倅左近佐成公病気為養生在京

18日 病死仕り候 盛之の倅 左近佐成公 病気養生のため 在京

仕候所天正五酉年三月廿八日三好彦次郎長治

仕り候ところ 天正5酉年(1577年)3月28日 三好彦次郎長治

自殺仕旗下騒動仕候二付成公罷帰親盛之ト月交代

自殺仕り 旗下 騒動仕り候につき 成公 罷り帰り 親盛之と月交代

・旗下=配下、家臣 ・罷帰=退き帰る、まかる、かえる、帰るを強調

二勝瑞江相詰守護仕候内同十午年八月廿八日

に勝瑞へ相詰 守護仕り候うち 同10午年(1582年)8月28日

・勝瑞=勝瑞城、阿波国の守護所、細川氏、三好氏の居城、天正十年廃城

長宗我部元親勝瑞江攻寄候附三好孫六郎存保之

長宗我部元親 勝瑞へ攻め寄せ候につき 三好孫六郎存保の

・三好孫六郎存保=十河存保

旗下二而於中富川原戦死仕候大栗三郎兼長

旗下にて 中富川原に於いて 戦死仕り候 大栗三郎兼長

庄野甚兵衛光利小野久米右衛門一房ト申家老三人

庄野甚兵衛光利 小野久米右衛門一房と申す家老三人

成公二相続討死仕成公嫡子紀伊守長實家督相続仕

成公に相続き 討死仕り 成公嫡子 紀伊守長實 家督相続仕り

候所天正十二申年三月廿二日病死仕候長實弟

候ところ 天正12申年(1584年)3月22日 病死仕り候 長實弟

次良五郎松實家督相続仕罷在候所

次良五郎松實 家督相続仕り 罷り在る候ところ

天正十三酉年

天正13酉年(1585年)

瑞雲院様御討入之始一宮

瑞雲院様 お討ち入りの始め 一宮

・瑞雲院=蜂須賀家政の戒名

・一宮=一宮城、阿波へ入部した当時の蜂須賀家政の居城

御城江次良五郎儀弟秋元五郎大夫成松等三十五騎

御城へ 次良五郎儀 弟 秋元五郎大夫成松 ら 35騎

召連御迎二罷出候所則

召連れ 御迎えに 罷り出で候ところ すなわち

御目見被 仰附難有

御目見え被り 仰付け有り難し

・御目見=お目にかかること ・仰付=御命令を拝する、お言いつけを受ける

御意之上二百人御扶持方被下置候其頃仁宇谷百姓

御意の上 200人御扶持方 下し置かれ候 その頃 仁宇谷百姓

・御意之上=お心の上、思し召しの上 ・被下置=くだしおかる、くだしおかれ

一揆二付相働候為御褒美次良五郎江三百石

一揆につき相働き候 御褒美のため 次良五郎へ300石

五郎大夫江二百石被下置候而次良五郎儀御奉公

五郎大夫へ200石 下し置かれ候 しかして次良五郎儀 御奉公

仕唯今櫛渕駒蔵家二而御座候五郎大夫儀者

仕り ただいま櫛渕駒蔵家にて御座候 五郎大夫儀は

御断申上候而大坂江退去仕候

御断り申し上げ候 しかして大坂へ退去仕り候

(右御改申上候■■■年月惣分相分不申候)

(右御改め申し上げ候■■■年月全ての分相分からず申し候)

慶長六丑年八月八日於彼地病死仕候

慶長6丑年(1601年)8月8日 彼の地に於いて 病死仕り候

・彼地=大坂



初代 秋元幸左衛門成貞

初代 秋元幸左衛門成貞

五郎大夫嫡子二而御座候若年之頃於大坂

五郎大夫嫡子にて御座候 若年の頃 大坂に於いて

峻徳院様

峻徳院様(蜂須賀家政の長男・至鎮の戒名、よししげ、と読む)

御目見被 仰附並二江戸御供被

御目見え被り 仰付け並びに 江戸御供を被る

仰附今後毎江戸御供相勤大坂御陣之御供相勤申候

仰付け 今後 毎江戸御供に相勤め 大坂御陣の御供に相勤め申し候

興源院様御代

興源院様御代 (蜂須賀至鎮の長男・忠英の戒名、ただてる、と読む)

江戸御普請御用相勤長崎御上使之■■御使毎年

江戸御普請御用を相勤め 長崎御上使の■■御使を毎年

毎度相勤罷帰候上為当座御褒美白銀弐拾枚拝領仕候

毎度相勤め 罷り帰り候上 当座の御褒美 白銀弐拾枚拝領仕り候

旅役前後弐拾八ヶ度相勤 慶安元子年十二月二日

旅役前後28ヶ度相勤め 慶安元子年(1648年)12月2日

高百石被下置 御判物所二附御目録頂戴仕其後

高100石下し置かれ 御判物ところに附き 目録頂戴仕り その後

齢昭院様御賄為御用江戸三年詰相勤申候

齢昭院様御賄い御用のため 江戸3年詰相勤め申し候 (蜂須賀忠英の正室・繁の戒名、れいしょういん、と読む)

(高百石被下置候以前御宛行何■拝領仕候■右前後■■年暦■■■■方江罷越候■■■拝領仕候年月

惣而相分不申候)

(高100石下し置かれ候 以前御宛行い何■拝領仕り候■右前後■■年暦■■■■方へ罷り越し候■■■拝領仕り候 年月全て相分からず申し候)

承應二巳年八月三日病死仕候

承応2巳年(1653年)8月3日 病死仕り候



二代 秋元仁兵衛成之

二代 秋元仁兵衛成之

親幸左衛門江戸三年詰之内二被

親幸左衛門 江戸3年詰のうちに被る

召出御用三年相勤申候(右御用何御用二而御座候処
相分不申候)

召し出し 御用3年相勤め申し候(右御用何御用にて御座候ところ相分からず申し候)

承應二巳年十一月三日親幸左衛門家督無御相違被下置

承応2巳年(1653年)11月3日 親幸左衛門 家督無くして御相違下し置かる

明暦三酉年(月日相分不申候)江戸上御屋敷御普請

明暦3酉年(1657年)(月日相分からず申し候)江戸上屋敷御普請の

為御用罷越同年十二月廿八日罷帰其後流木方

御用のため罷り越し 同年12月28日罷り帰り その後 流木方

御用相勤月路見御用九ヶ年中嶋御用六ケ年相勤

御用を相勤め 月路見御用を9ヶ年 中嶋御用を6ヶ年相勤め

病気二附奉願右御役御免被仰附其後木頭御代官被

病気につき 願い奉り右御役御免被る仰付け その後 木頭御代官を被る

仰附七ヶ年相勤罷在候内■手困窮二及雑取続依之

仰付け 7ヶ年相勤め罷り在る候うち■手困窮に及び雑取続き依の

七ヶ年御用方御免被 仰附候■■逼塞仕度附奉願候

■五ヶ年御免被

7ヶ年御用方御免被る 仰付け候■■逼塞(謹慎)仕る度に附き願い奉り候■5ヶ年御免被る

仰附六ヶ年目

仰付け6ヶ年目

泰壽院様御賄為御用江戸江罷越翌年罷帰其後

泰壽院様御賄い御用のため 江戸へ罷り越し 翌年罷り帰りその後

海部金山見分御用相勤西之御丸御番相勤罷在候内

海部金山見分御用を相勤め 西の御丸御番を相勤め 罷り在る候うち

病気二附御番御免被 仰附候彼是四十何年御奉公

病気につき御番を御免被る 仰付け候 かれこれ40何年御奉公仕り候■■

仕候■■

御聴嫡子幸左衛門為名代

御聴き入れ 嫡子幸左衛門 名代のため

天和元酉年(月日相分不申候)

天和元酉年(1681年)月日相分からず申し候

御供江戸被 仰附罷越翌戌年五月罷帰貞享二丑年

御共江戸被る 仰付け 罷り越し 翌戌年五月罷り帰り 貞享2丑年(1685年)

十二月十二日嫡子幸左衛門向後名代被召仕家督無

12月12日 嫡子幸左衛門 むこうご(今後)は名代を被り召仕え 家督無くして

御相違被下置隠居名休印ト相改申候

御相違下し置かれ 隠居名休印と相改め申し候

(右流木方御用相勤候以下年月惣而相分不申候)

(右流木方御用を相勤め候 以下年月全て相分からず申し候)

元禄六酉年四月十日病死仕候

元禄6酉年(1693年)4月10日 病死仕り候



三代 秋元幸左衛門成春

三代 秋元幸左衛門成春

貞享二丑年十二月十二日親仁兵衛向後名代被召仕

貞享2丑年(1685年)12月12日 親仁兵衛 向後名代を被り召仕え

家督無御相違被下置御林奉行被仰附相勤罷在候内

家督無くして御相違下し置かれ 御林奉行を被り仰付け相勤め罷り在る候

海部槙小屋御手山仕分加役被

うち 海部槙小屋御手山仕分加役を被る

仰附右御材木御拂方為見分大坂江罷越其後御借用

仰付け右御材木御払い方見分の為 大坂へ罷り越し その後 御借用銀の御用の為大坂へ罷り越し候

銀為御用大坂江罷越候(御林奉行相勤候以下年暦惣而相分不申候)元禄十六未年七月廿四日病死仕候

(御林奉行を相勤め候 以下年暦全て相分からず申し候)元禄16未年(1703年)7月24日 病死仕り候



四代 秋元仁兵衛成房

四代 秋元仁兵衛成房

元禄十六未年家督無御相違被下置候

(月日相分不申)

元禄16未年(1703年)家督無くして御相違下し置かれ候(月日相分からず申す)

奉願通仁兵衛ト改名被 仰附(年暦相分不申候)

願い奉る通り仁兵衛と改名を被る 仰付け(年暦相分からず申し候)

寳永四亥年二月十日御先立御供江戸罷越翌子年四月廿九日罷帰候

宝永4亥年(1707年)2月10日 御先立ち御共で江戸へ罷り越し 翌子年4月29日罷り帰り候

享保三戌年五月(日相分不申候)

享保3戌年(1718年)5月(日相分からず申し候)

仁良院様御供仕江戸江罷越翌亥年五月七日罷帰候

仁良院様御供仕り江戸へ罷り越し 翌亥年5月7日罷り帰り候

同十七子年七月九日

享保17子年(1732年)7月9日

御城山定御番被 仰附候嫡子喜三左衛門病気二附

御城山定御番を被る 仰付け候 嫡子喜三左衛門病気につき

奉願退身当仕中山直右衛門二男半左衛門儀姪聟養

願い奉り退身に当たり仕る 中山直右衛門二男 半左衛門儀 姪の聟養子

子二奉願通被仰附候

に願い奉る通り被り仰付け候

(退方聟養子奉願候年月相分不申候)

(退き方婿養子願奉り候 年月相分からず申し候)

寳暦七丑年十二月九日養子半左衛門儀向後名代被

宝暦7丑年(1751年)12月9日 養子半左衛門儀 向後は名代を被り

召仕家督無御相違被下置隠居名三休ト相改申候

召仕え家督無くして御相違下し置かれ 隠居名三休と相改め申し候

同十二午年九月十日病死仕候

同12午年(1762年)9月10日 病死仕り候



五代 秋元半左衛門盛則

五代 秋元半左衛門盛則

寳暦七丑年十二月九日養父仁兵衛向後名代被 

宝暦7丑年(1751年)12月9日 養父仁兵衛 向後は名代を被り

召仕家督無御相違被下置

召仕え家督無くして御相違下し置かる

御城山定御番被 仰附明和三戌年十月廿四日此後

御城山定御番を被る 仰付け 明和3戌年(1766年)10月24日 この後

御小姓組ヲ御建■内右■組江御■入右組頭被 

御小姓組を御建■うち右■組へ御■入り右組頭を被る

仰附大番頭次席二御■■被■為御役料年中米五石

仰付け 大番頭次席に御■■被■ため、御役料を年中米5石

被下置同年十二月廿三日御禮式御用相勤候二附尚

下し置かれ 同年12月23日 御礼式御用を相勤め候につき なおまた

又為御役料毎年白銀七枚被下置同六丑年此度市原

御役料のため毎年白銀7枚下し置かれ 明和6丑年(1769年)この度

角蔵被 仰附二付 市原■右衛門■■申上一件■■

市原角蔵を被り 仰付けにつき 市原■右衛門■■申し上げ一件■■

行■心得宣敷二附白銀拾枚被下置(月日相分不申候)

行■心得宣敷につき白銀10枚下し置かる(月日相分からず申し候)

同七寅年六月廿七日

同7寅年(1770年)6月27日

御城山定御番被 仰附同年十二月八日昆野忠右衛

御城山定御番を被る 仰付け 同年12月8日 昆野忠右衛門

門二男直右衛門儀聟養子奉願通被仰附安永三午年

二男 直右衛門儀 聟養子願い奉る通り被り仰付け 安永3午年(1774年)

七月八日御役替以後大坂御拂米御用之御目附併彼

7月8日 御役替え以後 大坂御払い米御用の御目付を併せ

地御屋敷詰之御目附役共被 仰附同年九月廿九日

彼の地御屋敷詰の御目付役を共に被る 仰付け 同年9月29日

大坂江罷越翌未年十月六日罷帰同六酉年五月八日

大坂へ罷り越し 翌未年10月6日罷り帰り 同6酉年(1777年)5月8日

大坂江罷越翌戌年十月五日罷帰候同九子年八月

大坂へ罷り越し 翌戌年10月5日罷り帰り候 同9子年(1780年)8月

八日養子直右衛門儀向後名代被 召仕家督無御相

8日 養子直右衛門儀 向後は名代を被り 召仕え家督無くして御相違

違被下置隠居名遊山ト相改申候寛政十一未年二月

下し置かれ 隠居名遊山と相改め申し候 寛政11未年(1799年)

廿七日病死仕候

2月27日病死仕り候



六代 秋元直右衛門成茂

六代 秋元直右衛門成茂

安永六酉年三月五日大嶋伴十郎江戸在番中

安永6酉年(1777年)3月5日 大嶋伴十郎 江戸在番中

安之丞様御槍術御指南被 仰附候同九子年八月

安之丞様御槍術御指南役を被る 仰付け 同9子年(1780年)8月

八日養父半左衛門向後名代被 召仕家督無御相違

8日 養父半左衛門 向後は名代を被り 召仕え家督無くして御相違

被下置半左衛門■■■御役■■被仰附同年九月

下し置かれ 半左衛門■■■御役■■を被り 仰付け 同年9月

廿八日大坂江罷越翌丑年十月六日罷帰天明二寅年

28日 大坂へ罷り越し 翌丑年10月6日罷り帰り 天明2寅年(1782年)

十一月七日御役替御厩御馬具積技御馬取支配■■

11月7日 御役替え 御厩御馬具積技御馬取支配■■

裁判御■行役被仰附同七未年九月十三日御役替

裁判御■行役を被る 仰付け 同7未年(1787年)9月13日 御役替え

大谷御屋敷御繕番役被 仰附寛政八辰年四月

大谷御屋敷御繕い番役を被る 仰付け 寛政8辰年(1796年)4月

十八日年■御番■■怠相勤骨折二被

18日 年■御番■■怠 相勤め骨折りに被る

思召候被 仰出享和元酉年六月八日右御役御免被

思し召しを被る 仰せ出し 享和元酉年(1801年)6月8日 右御役御免被る

仰附同三亥年九月数日江戸立帰御供罷越同十月

仰付け 同3亥年(1803年)9月数日 江戸立ち帰りの御供で罷り越し同10月

十六日罷帰候文化六巳年老年病気二附奉願通

16日罷り帰り候 文化6巳年(1809年)老年病気につき願い奉る通り

十二月八日嫡子勘右衛門向後名代被 召仕家督無

12月8日 嫡子勘右衛門 向後は名代を被り 召仕え家督無くして

御相違被下置隠居名山答ト相改申候同八未年二月

御相違下し置かれ 隠居名山答と相改め申し候 同8未年(1811年)2月

三日病死仕候

3日 病死仕り候



七代 秋元勘右衛門茂胤

七代 秋元勘右衛門茂胤

寛政六寅年十二月十五日親直右衛門奉願通初而

寛政6寅年(1794年)12月5日 親直右衛門 願い奉る通り初めて

御目見被 仰附文化六巳年十二月八日直右衛門奉

御目見え被る 仰付け 文化6巳年(1809年)12月8日 直右衛門 願い

願通向後名代被 召仕家督無御相違被下置候

奉る通り 向後は名代を被り 召仕え家督無くして御相違下し置かれ候

文政八酉年正月廿日病気大切二相及嫡子仁平次江

文政8酉年(1825年)正月2日 病気大切に相及び 嫡子仁平次へ

相続奉願置病死仕候

相続を願い奉り置き 病死仕り候



八代 秋元勘右衛門盛典

八代 秋元勘右衛門盛典

文政四巳年二月数日親勘右衛門奉願通初而

文政4巳年(1821年)2月数日 親勘右衛門 願い奉る通り初めて

御目見被 仰附同八酉年三月十三日勘右衛門奉願

御目見え被る 仰付け 同8酉年(1825年)3月13日 勘右衛門願い奉る

通家督無御相違被下置同十二丑年三月十六日

通り家督無くして御相違下し置かる 同12丑年(1829年)3月16日

御供立帰江戸乗船罷越四月廿六日罷帰候天保六未

御供立ち帰り江戸乗船で罷り越し 4月26日罷り帰り 天保6未年(1836年)

年二月三日奉願通勘右衛門ト改名被 仰附候同年

2月3日 願い奉る通り勘右衛門と改名被る 仰付け 同年9月3日

九月三日

御城山定御番被 仰附嘉永元申年四月十八日

御城山定御番を被る 仰付け 嘉永元申年(1848年)4月18日

御免被 仰附候安政五午年十一月三日嫡子佐五郎

御免を被り 仰付け安政5午年(1859年)11月3日 嫡子佐五郎

病気二附奉願通退身被 仰附候同六未年七月三日

病気につき願い奉る通り退身を被る 仰付け候同6未年(1860年)7月3日

増田玄達弟惠喜助養子二奉願通被 

増田玄達弟 惠喜助養子に願い奉る通り被る

仰附候蔓延元申年七月廿四日惠喜助儀西洋流砲術

仰付け候 万延元申年(1860年)7月24日 惠喜助儀 西洋流砲術

教授方本役二被 仰附候同年十一月数日奉願通惠喜助

教授方本役に被る 仰付け候 同年11月数日 願い奉る通り惠喜助

若殿様

若殿様

御名代初而

御名代初めて

御目見被 仰附候

御目見え被り 仰付け候


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  系圖


諏訪大祝盛澄之後胤秋元和泉守盛貞五代

   母 木内作之丞利房 女

初代 秋元幸左衛門
 諏訪成貞 幼名庄大夫

   妻 大坂市人雛屋八兵衛 女

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   母 大坂市人雛屋八兵衛 女

二代 仁兵衛 
 成茂 隠居号休印

   妻 森五右衛門村義 妹

 成勝 三由武州 江戸住居

 女 嫁干 津田角之進義之

 女 嫁干 關彌兵衞知恒

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   母 森五右衛門村義 妹

三代 幸左衛門 
 成春

   妻 中村六郎右衛門某 女

 成次 惠右衛門

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   母 中村六郎右衛門某 女

四代 仁兵衛
 成房 幼名増之助 隠居号三休

   妻 片山彌左衛門幸詳 姉

 某 六平 早世

 某 幸之助 早世

 女 嫁干 箕村夫兵衛著信

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 成雄 喜三左衛門 病気退身

 女 早世

   實 中山直右衛門般長二男

五代 半左衛門
 盛則 幼名八郎 隠居号遊山

   妻 箕村夫兵衛著信 女

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   實 昆野忠右衛門長央 二男

六代 直右衛門
 成茂 幼名作郎 隠居号山答

   妻 養父半左衛門盛則 女

 女 直右衛門成茂 妻

 女 嫁干 本庄平太兵吉

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   母 半左衛門盛則 女

七代 勘右衛門
 茂胤 幼名信藏 後正之助

   妻 石川藤藏久方 女

 女 嫁干 三木彦之助清村

 女 嫁干 本庄又兵衛美之

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   妾腹

八代 勘右衛門
 盛典 幼名仁平次

   妻 三木彦之助清村 女

 女 嫁干 戸田半作直通

 女 嫁干 長谷川七右衛門貞壹

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 某 為八郎 早世

 女 早世

 盛謙 佐五郎 病気退身

   實 増田玄達質直 弟

 盛恕 惠喜助


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


高百石
     秋元勘右衛門

定紋    印


文久元酉年(1861年)十一月十四日

  但天保五午年(1835年)指上置候

  成立系圖書継仕指上候




 五郎大夫成松は、蜂須賀家政より200石で召し抱えるという約束を受けたが、蜂須賀家の阿波入部の際のゴタゴタに紛れ、結局は3年後に取り消しになったのだが、そのことについては文中で触れていない。ただ仕官を断って大坂に退去したとだけ書かれている。息子の幸左衛門成貞が成長して、蜂須賀家支配が安定した頃の至鎮(家政の息子)の時代になって召抱えられた。

 大坂の地で病死したという五郎大夫成松であるが、実は蜂須賀家を去り宣常と改名し、真田昌幸を頼って真田家へ仕官したとされている。五郎大夫の先祖も真田と同じ信州であることで真田を頼ったと。その因果により上州沼田領へ転住することになったという。(徳島県小松島市櫛渕町史)


【参考文献】徳島大学附属図書館収蔵 近世大名(蜂須賀家)家臣団家譜資料「成立書」


櫛渕史研究会

本サイトは、櫛渕の苗字の成立ちから現在までについて調査研究したもののうち、公開可能と判断できる内容を掲載し、櫛渕について興味をお持ちの方にご覧いただくことを目的としています。

0コメント

  • 1000 / 1000