成立書系圖共 櫛渕駒藏

2019.6.15更新 櫛渕達夫


 群馬の櫛渕家始祖と見られる櫛渕宣常(改名前は、櫛渕五郎大夫成松)に繋がる、阿波国蜂須賀家家臣の櫛渕家成立書について、一部を省略して掲載します。(部分的に不明な文字があるため、■で表示しています)


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  成立

   成り立ち

先祖秋元和泉守盛貞儀者諏訪大祝盛澄之後胤ニ而

先祖秋元和泉守盛貞儀は 諏訪おおほうり盛澄の こういんにて

・後胤=子孫、すえ、後裔

信州上諏訪之城主繁野冠者貞國之孫二而同國

信州 上諏訪の城主 繁野 かんじゃ 貞國の孫にて 同國

・冠者=若者、若輩、かじゃ ・同國=信州を指す

秋元之里ヲ領知仕罷在候処文亀二戌年

秋元の里を 領知つかまつり まかりありそうろうところ 文亀2戌年(1502年)

・領知=領有支配 ・罷在=あります、おります

御國江罷越当時三好筑前守之長之扶助二預

御國へまかりこし当時 三好筑前守之長の扶助に預かり

・御國=阿波国を指す ・罷越=参上する、参る ・扶助=力を添えて助ける

細川家之旗下ニ而那賀郡櫛渕村三倉村領知仕罷在

細川家のきかにて 那賀郡櫛渕村 三倉村 領知つかまつり 罷り在る候

・旗下=配下、家来 ・仕=する、行うの謙譲語

・細川家=阿波守護家、14世紀中頃、細川頼之の弟、詮春に始まり10代、真之のときに滅亡した。真之は細川家の家宰(筆頭重臣)三好長治の悪政を断つため長宗我部元親と手を結び長治を滅ぼしたが、天正10年に長治の弟である十河存保の攻勢を受け自刃、阿波守護家は滅亡した。

候同三亥年同郡大埜城主某細川家江相背二附

同3亥年(1503年)同郡大野城主なにがし 細川家へ相そむきにつき

八月十三日盛貞為討手罷越九月五日攻落候

8月13日 盛貞は 討手のため罷り越し 9月5日 攻め落とし候

右乃恩賞其領之内立江古毛荒田野上大埜下大埜

右の恩賞 その領のうち 立江 古毛 荒田野 上大埜 下大埜

之五ヶ村領知仕旧領共三千貫二相成櫛渕村二居城

の5ヶ村 領知仕り 旧領共 3千貫に相成り 櫛渕村に居城

・1貫=2石、3千貫=6千石

・居城=櫛渕城、奥条城

築苗字櫛渕ト相改同村二諏訪明神之外

築き 苗字櫛渕と相改め 同村に諏訪明神のほか

諸社建立仕罷在候所永禄三申年八月病死仕候

諸社建立仕り 罷り在り候ところ 永禄3申年(1560年)8月 病死仕り候

右盛澄ヨリ盛貞迄之間相続人名不分御國江罷越候 

右盛澄より盛貞までの間 相続人名分からず 阿波国へ罷り越し候

■■相分不申盛貞嫡子紀伊守盛之家督相続仕天正

■■相分からず申す 盛貞嫡子 紀伊守盛之 家督相続仕り 天正

十二申年十一月十八日病死仕嫡子左近佐成公病年

12申年(1584年)11月18日 病死仕り 嫡子 左近佐成公 病年

為養生在京仕候処同五酉年三月廿八日三好長治

養生のため 在京仕り候ところ 同5酉年(1577年)3月28日 三好長治

自殺仕旗下騒動仕ニ付成公罷帰親盛之戸月交代

自殺仕り 旗下騒動仕るにつき 成公 罷り帰り 親盛之と月交代

二勝瑞城江相詰守護仕候内同十午年八月廿八日

に勝瑞城へ相詰め 守護仕り候うち 同10午年(1582年)8月28日

・勝瑞城=阿波国の守護所、細川氏、三好氏の居城、天正十年廃城

長宗我部元親勝瑞江攻寄候二付三好存保旗下二而

長宗我部元親 勝瑞へ攻め寄せ候につき 三好存保旗下にて

於中富川原戦死仕候嫡子紀伊守長實同十二申年

中富川原において戦死仕り候 嫡子 紀伊守長實 同12申年(1584年)

三月廿二日病死仕弟次良五郎松實家督相続仕候

3月22日 病死仕り 弟 次良五郎松實 家督相続仕り候



初代 櫛渕次良五郎松實

初代 櫛渕次良五郎松實

長宗我部元親之幕下に罷在候処天正十三酉年

長宗我部元親の幕下に 罷り在り候ところ 天正13酉年(1585年)

瑞雲院様

瑞雲院様

・瑞雲院=蜂須賀家政の戒名

御入國惣一宮江

御入国 惣 一宮江

・惣=総ての ・一宮=一宮城 ・総ての者が一宮城へ

御着座之刻次良五郎儀弟五郎大夫三拾五騎召連

御着座のとき 次良五郎儀 弟 五郎大夫 35騎 召し連れ

御迎二罷出候処則

御迎えに 罷り出で候ところ すなわち

御目見被 仰付難有

御目見え被り 仰付け有り難し

・御目見=お目にかかる ・仰付=お言いつけを受ける、御命令を拝する

御意之上弐百人御扶持方被下置候其頃仁宇谷

御意の上 200人御扶持方下し置かれ候 その頃 仁宇谷

・御意之上=お心のうえ、思し召しのうえ ・被下置=くだしおかる、くだしおかれ

百姓共一揆二付相働候為御褒美御知領三百石被下

百姓共一揆につき 相働き候ため 御褒美 御知領300石 下さる

旨同年御判物被下置同十四戌年同十七丑年取消

旨同年(1585年) ごはんもつ下し置かれ 同14戌年(1586年)同17

・御判物=大名などが花押を加えた下達文書

二候御判物被下置以取消仕候文禄元辰年

丑年(1589年)取消しに候 御判物下し置かれ もって取り消し仕り候 文禄

瑞雲院様高麗御陣之刻御供仕於彼地戦死仕候右

元辰年(1593年) 瑞雲院様(蜂須賀家政)高麗御陣のとき 御供仕り

尽 年暦月日相分不申候

彼の地に於いて 戦死仕り候 右尽きる 年暦月日 相分からず申し候

・彼の地=高麗御陣(秀吉による朝鮮出兵)の地



二代 櫛渕所左衛門之盛

二代 櫛渕所左衛門之盛

亡父次良五郎討死仕候頃幼少二罷在親類方二而養育

亡き父 次良五郎 討死仕り候頃 幼少に罷り在り 親類方にて養育

仕罷在候処 慶長十二未年位

仕り 罷り在り候ところ 慶長12未年(1607年)くらい

瑞雲院様次良五郎儀倅有之哉旨

瑞雲院様 次良五郎儀 倅有るのや旨

御尋被遊候其節所左衛門十七歳二罷成其段奉申上

お尋ね被り遊ばされ候 その節 所左衛門 17歳に罷なり その段奉り申し上げ

候処召連被 召出 御側ニ而被 召仕

候ところ 召し連れ被る 命じ出す お側にて被る 召仕え

興源院様御代迄御奉公仕罷在候(俸禄相分不申候)

興源院様御代まで ご奉公仕り 罷りあり候(俸禄相分からず申し候)

病死仕候右尽 年暦月日相分不申候

病死仕り候右尽きる 年暦月日相分からず申し候



三代 櫛渕次良五郎盛房

三代 櫛渕次良五郎盛房

幼少之頃所左衛門病死仕候■■被 召上親類之方

幼少の頃 所左衛門 病死仕り候■■被り 親類の方に呼び寄せ 罷りあり候

二罷在候其後軽キ御奉公仕遡る先祖之趣奉申上右

その後 軽き御奉公仕り 遡る先祖の趣奉り申し上げ 右

御判物■面■指上候処於江戸二

御判物■面■差し上げ候ところ 江戸において

徳音院様達

徳音院様たち

御聴重二難有

御聴き入れ重くに 有り難し

御意二而当分御従士二被 召出三人御扶持方

御意にて 当分御従士に被 命じ出す 3人御扶持方

御支配八石被下置候ニ而被 仰出年■■■御■■仕

御支配8石 下し置かれ候 仰せ出す 年■■■御■■仕る

貞享元子年病死仕候御用方相■候次弟儀右■年暦

貞享元子年(1684年)病死仕り候 御用方相■候 次弟右■年暦

月日相分不申候

月日相分からず申し候



四代 櫛渕又兵衛盛政

ーーー省略ーーー



五代 櫛渕次良五郎盛俊

ーーー省略ーーー



六代 櫛渕孫郎盛明

ーーー省略ーーー



七代 櫛渕次郎助盛強

ーーー省略ーーー



八代 櫛渕駒藏幸行

ーーー省略ーーー



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  系圖


諏訪大祝盛澄之後胤櫛淵紀伊守長實弟

    母 不詳

初代 櫛淵次良五郎
 平松實

    妻 四宮外記某 女

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    母 四宮外記某 女

二代 所左衛門
 之盛


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    妾腹

三代 次良五郎
 盛房


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    妾腹

四代 又兵衛
 盛政

    妻 原士 吉成權平某 妹

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    妾腹

五代 次良五郎
 盛俊

 女  

 女  

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    妾腹

六代 孫郎
 盛明


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    妾腹

七代 次郎助
 盛強

    妾腹

 久盛 甚三郎  為 次郎助盛強 養子

    妾腹

 氏庸 小右衛門  為 服部永太為貞 養子

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 久盛 甚三郎  實 次郎助盛強 弟 御追放被 仰付

    實 服部小右衛門氏庸 二男

八代 駒藏
 幸行  

 

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 好孝 基三郎

    妾腹

 某  永作  出家

 女


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四人御扶持方御支配七石
             櫛渕駒藏


定紋     印


文久元酉年(1861年)九月

  但天保五午年(1835年)指上置候

  成立系圖書継仕指上候


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【実際の最後の頁】

この頃、阿波国の櫛渕家では「五瓜に二木」の家紋を使用していることが分かります。安土桃山時代の終盤に櫛渕宣常という人物を介して、阿波国那賀郡櫛渕村から上野国利根郡後閑村に伝わったものです。


 櫛渕駒藏の記述によれば、蜂須賀家政が駒蔵の先祖である次良五郎松實に対して、仁宇谷百姓一揆について働いた褒美として、知領300石を与える旨の家政の花押を加えた文書を交付しておきながら、3年後には取り消し処分としたが、それでも当人の次良五郎は蜂須賀家に仕え、朝鮮出兵の際に戦死してしまったとある。当時の次良五郎と息子所左衛門の俸禄については如何程か定かではないが、所左衛門の息子次良五郎盛房の俸禄は、まだ年少ということもあってか三人御扶持方御支配八石という下級士並に扱われ、幕末まで代々そのような扱いであったという。松實弟の五郎大夫成松も同様に知領200石を約束されたうえ取り消しになったのだが、五郎大夫成松のことについては成立書で一切触れていない。成立書提出時点の秋元勘右衛門家に遠慮したためだろう。

 一方、秋元勘右衛門方の記述では、兄の次良五郎松實へ知領300石、五郎大夫成松へ知領200石を与えるとのみ書かれており、知領を与える約束を取り消されたことについては触れていない。勘右衛門の先祖の五郎大夫成松は、仕官を断り大坂へ去ったとだけ書かれていて仕官を断った理由は書かれていない。成立書提出時では櫛渕駒藏家に比べて、高100石という扱いを受けていたため、昔の事ということもあり蜂須賀家に遠慮したためか。

 櫛渕駒藏家の家禄は「四人扶持方支配七石」であり、秋元勘右衛門家の家禄は「高百石」である。

高300石の約束⇒4人扶持7石、高200石の約束⇒高100石となった。約束を取り消されても仕官して戦死した子孫の方が安い俸禄になり、仕官を断って一旦は大坂に去り、後年にその息子が舞い戻って仕官し、約束の半分とは言え100石で召抱えられたとは、なんとも皮肉なものである。


【参考文献】徳島大学附属図書館収蔵 近世大名(蜂須賀家)家臣団家譜資料「成立書」


櫛渕史研究会

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