1680(延宝8)年、江戸の両国橋が台風による増水で流失し、その再架橋工事にかかる用材調達を、幕府の命令により沼田藩主真田伊賀守信利が請け負った。そのため沼田領民は、用材伐採で利根川・片品川上流の山林に駆り出された。しかし延宝8~9年の大飢饉が重なり、疲弊した領民による用材伐採が順調に進まず、江戸への用材納期が間に合わず幕府に遅延を咎められ、また沼田領内の悪政もあり1681(天和1)年、幕府より改易処分が言い渡された。信利は山形の奥平家に、長男信就は播磨赤穂藩浅野家にお預けとなった。これにより沼田の真田家は絶家となり、1681(天和1)年、沼田城は幕府に明け渡され破却が開始された。以降、沼田領は幕府領となり、1703(元禄16)年、下総舟戸藩から移封された本多家が入るまでの22年間、代官による支配が行われた。
1684(貞享1)年、幕府より沼田領の総検地実施命令が出され、前橋藩がその任務に当たった。検地を実施したのは、前橋藩主酒井家家老高須隼人を総奉行とした酒井家家臣団である。見地に約4ヶ月、検地帳の完成までに約2年を費やし完成させたものが代官に渡された。この検地により、ゆるく測られた石高は5万2千石あまりとなり(一説には6万5千石)、従前の14万4千石と比較するとおよそ3分の1に減少したため領民は喜び、貞享のお助け検地と呼ばれている。それでも沼田藩の表高3万石からすれば7割以上の増加であり、この貞享検地の村高が多くの村で明治初年まで表高として通用していくこととなる。
さて本題の沼田藩領内の見取騒動であるが、この頃は土岐家が領主となっていた。1781(天明1)年、時の領主土岐美濃守定経は幕府から大坂城代を命じられた。しかし大坂城代ともなると家の格式は10万石級とされ、それを賄うための出費が大幅に増大してしまい、逼迫した土岐家財政の立て直しを図るため新たに増税することとなった。その増税内容はこうである。貞享のお助け検地以降に新しく山林原野を開墾して農地にした場合は(見取田・見取畑という)、本田畑の高に加えないで年貢率も極めて低く設定していた。村の検地帳に石高として加えていなかった土地を本田本畑並みに課税して(見取高入という)増税しようとしたのである。また、これによって領民の反対が起こらないよう領主土岐家は、有力百姓3人(高平村小野嘉平太、硯田村片野新助、後閑村櫛渕作右衛門)を土見役(田畑の格付役)に任命して、領民の懐柔と説得に当たらせようとした。当然、領民はこの増税に不服であり、代表者ら(奈良村石田要右衛門・民右衛門、生品村小菅源太郎、立岩村小林佐七)が見取反対の傘廻文を作成し領内各村へ檄を飛ばした。見取不服の者は、12月18日・19日に東は立岩村の虚空蔵山、西は町田村の法城院に集まるべしというものだった。しかし、この傘廻文を見た沼須村の武井多左衛門が驚いて沼田城内に密告したため、城内では一揆鎮圧策を協議するとともに、防衛策として急遽城門を固く閉じた。廻文に従って領民たちは期日にそれぞれの集合場所に集合し、さらに二手に分かれて一方は高平村小野嘉平太宅へ、他の一団は後閑村櫛渕作右衛門宅、硯田村片野新助宅へ押し寄せ、見取廃止の請願を強く迫り、土見役の辞任と計画撤回を認めさせた。さらには城中に対しても直接強訴すべく、沼田町お馬出しの神明宮に集結して、来春には沼田城下に押し寄せる決議を行い、見取高入反対の気勢をあげた。城内では重臣たちが対応策について協議したが、当時31歳で国家老になったばかりの月岡修理勝澄が鎮撫役を買って出て、各村の名主を大手門前に集めて説得に当たった。そして月岡自らが見取高入中止の説得を大坂城代である主君の土岐定経に請願するため、直ちに大坂へ向かった。月岡はお上に聞き入れられぬときは切腹覚悟であったが、定経の了解を得て沼田に戻り、名主たちを招集して年貢は従来通りに据え置くことを伝えた。 その後、土岐家ではこの騒動の関係者の一斉検挙を行った。江戸屋敷より竹川杢右衛門、棒術の名人で片山次郎左衛門を呼び寄せ、頭取の奈良村石田要右衛門、民右衛門、立岩村小林佐七をはじめ50人を次々と捕縛した。吟味の末41人は名主引渡し、6人は自宅謹慎、頭取の3人は責任者として永牢になった。この一連の出来事を見取騒動といっている。
この後、領主の病死、立て続けにその後継者2代の3人の病死があり、そのためか3人は5年で出牢できたが、出牢後間もなく3人とも病死してしまった。一方、騒動に関係しなかった沼田、榛名、高平、天神などの村には、一村三両三分の褒美が出た。また活躍した役人は、料理目録拝領となった。
参考資料
〈読む年表〉利根沼田の歴史 金子蘆城著 上毛新聞社
まんが沼田の歴史(下)-近世・近代・現代編- 沼田市
天明2年沼田藩領内の見取騒動一件記事 群馬県立文書館
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