2019.03.28 08:48沼田藩領内の見取騒動 1680(延宝8)年、江戸の両国橋が台風による増水で流失し、その再架橋工事にかかる用材調達を、幕府の命令により沼田藩主真田伊賀守信利が請け負った。そのため沼田領民は、用材伐採で利根川・片品川上流の山林に駆り出された。しかし延宝8~9年の大飢饉が重なり、疲弊した領民による用材伐採が順調に進まず、江戸への用材納期が間に合わず幕府に遅延を咎められ、また沼田領内の悪政もあり1681(天和1)年、幕府より改易処分が言い渡された。信利は山形の奥平家に、長男信就は播磨赤穂藩浅野家にお預けとなった。これにより沼田の真田家は絶家となり、1681(天和1)年、沼田城は幕府に明け渡され破却が開始された。以降、沼田領は幕府領となり、1703(元禄16)年、下総舟戸藩から移封...
2019.03.10 11:46明治初年時点の知行形態利根沼田地域における幕末の土地支配状況です。 意外にも沼田藩の支配地域は、町村数において地域全体の34パーセントしかないです。前橋藩が2パーセント、幕府直轄領と旗本領で残りの64パーセントです。旧月夜野町の区域では、赤谷川右岸と赤谷川・利根川の合流点から利根川下流側右岸が全域旗本領です。対岸は沼田藩領。さて、ここでお気づきの方もいらっしゃると思いますが、まるで1589(天正17)年、北条と真田の領地争い仲裁の秀吉裁定のようです。その裁定は沼田城側を北条支配とし、名胡桃城側を真田支配とするものでした。ところが北条側が裁定を破り、名胡桃城を奪取してしまいました。秀吉の怒り買ったことによる小田原攻めの果て、北条氏は滅亡、秀吉の天下統一へと進んだ訳です。その当...
2019.03.09 02:16櫛渕荘と秋本二郎兵衛尉 1185(文治1)年、源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ち、全国に守護・地頭を置いて鎌倉幕府を開いた。しかし西国における朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の2頭政治の状態にあった。朝廷の後鳥羽上皇は、多芸多才で武芸にも通じ狩猟を好む異色の天皇であり、それまでの北面武士に加えて西面武士を設置し、軍事力の増強を図っていた。後鳥羽上皇の財源は諸国に置かれた膨大な荘園群にあった。ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり、荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と紛争を起こすようになった。 1221(承久3)年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げた。承久...
2019.03.08 06:25櫛渕町史(抜粋)2020.2.25更新 櫛渕達夫 徳島県小松島市櫛渕町の町史から、「櫛渕家」に関する記述内容の抜粋を記載します。第二篇 歴史 第二章 神領と地頭の時代 二.新補地頭秋本氏―――――(以下抜粋)―――――(町史p.119) 文治元年(1185)に源頼朝は関東の武士を地頭職として、平家没官の領地に配慮し、自ら総追補使となり武家政治の始まる基をひらき、これまでの国司や荘園支配に代わるものとした。更に承久の変(承久3年、1221)後、執権北条氏は後鳥羽院方関係者の所領を没収し、勲功のあった御家人に恩賞として与えて地頭職とした。これを文治2年の地頭(本補地頭)に対し、新補地頭と呼ぶが、櫛渕へは秋本二郎兵衛が補任された。阿波国守護として文治2年に補任された佐々木...